統帥権干犯問題


 第一次世界大戦後の国際的な軍縮ムードの中で行われた1930(昭和5)年補助艦の制限を決めたロンドン海軍軍縮条約調印をめぐる政争。ことの発端は、ロンドン海軍軍縮条約に財部海軍大臣が出席し、補助艦総トン数は対英米69.75%で妥結調印の方向で訓電を仰ぐべく電報を打った。3月27日、濱口首相はこれを受け、軍を指揮する最高司令官たる昭和天皇に決裁をもらった。

 ところが、訓電を打電後の4月2日、加藤海軍軍令部長が自ら天皇のもとへ行き、軍令部としては、従来主張していた対英米70%でなければ反対と言った。4月21日、ロンドン会議の正式調印の前日に、海軍軍令部の使者が海軍省に乗り込んで「今回のことには同意できない、はっきりと反対する」と喧嘩を売って帰ってくる事態となった。この時、国会では第58回衆議院特別国会がはじまっていて、その議場で野党政友会の犬養毅、鳩山一郎が「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と発言し政府を攻撃。右翼団体も政府を攻撃した。それまで常備兵額を定めるのは「統帥権」ではなく「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム(第12条)」と規定されていた編成大権の管轄事項であり、ずっと内閣(海軍省)が決め、それを統帥部が承認して決まっていた。誰もそれを統帥権の干犯だとは思ってなかった。ところが、突然、軍備の決定は統帥部(海軍でいえば軍令部)の管轄であり、内閣がそれを決めるのは統帥権干犯であると言い出した。さらに反対派は、軍神元帥東郷平八郎海軍大将を担ぎ出し、海軍の公家であり、天皇の伯父にあたる伏見宮自体が、統帥権干犯と騒ぎ出す始末で、さすがの昭和天皇も言い返すことが出来なかった。

 軍縮条約は、濱口雄幸首相の英断で、条約に反対する海軍軍令部を押さえて調印し、日本政府としては事なきを得たが、海軍内部では条約批准推進の条約派と条約反対の艦隊派に分かれて大混乱となり、ロンドン海軍軍縮条約を認めた「条約派」は首切りにあって予備役に追いやられた。海軍の主流は強硬派である艦隊派となり、これにより日本は対米強硬路線を突き進むことになってしまう。また、濱口雄幸首相も、1930(昭和5)年11月14日、右翼団体愛国社の佐郷屋留雄(さごうやとめお)によって東京駅で狙撃されて重傷を負い(翌年8月26日死亡)、内閣も1931年(昭和6)年4月13日総辞職する。

 この統帥権干犯問題によって、編成権も統帥権に含まれるとする解釈が大勢を占めたとも言える。

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