スペイン内戦(1936-1939)


 1936年2月の総選挙で、親ソ派の人民戦線政府が成立したが、人民戦線内部での、社会党、共産党、アナーキストの権力闘争が激化、社会混乱が続く中、軍を代表する右派の人民戦線政府への不満が募り、ついに、1936年7月18日、スペイン領モロッコのメリリャ駐屯軍の反乱をきっかけに、スペイン各地で軍が蜂起した。これがいわゆる「スペイン内戦」の始まりであり、軍と政府が国土を二分して戦うことになった。
・初期(1936年)
 反乱軍の実権は、参謀総長を歴任し、当時カナリア諸島軍司令官フランシス・フランコ将軍が掌握し、9月29日、サラマンカで開催された最高評議会で国軍最高司令官に任命され、10月1日には、プルゴスの教会での集会で国家主席に就任し、反人民戦線側の最高指導者となった。
 しかし、反乱軍主力であるモロッコ駐留軍は、海空軍が政府側だったため、スペイン本土へ進撃することができず、フランスは独伊に支援を要請した。こうして独伊による反乱軍支援が開始された。独のJu52輸送機によって本土に空輸された反乱軍は、北部の反乱軍と呼応してマドリードを南北から挟撃し攻略するという作戦を行うが、1936年末には頓挫し戦線は膠着状態となる。
・中期(1937年)
 膠着状態となった両陣営は外国に支援を要請。政府軍側には、ソ連から軍事顧問団、兵員とともに戦闘機、戦車・火砲などが送られ、さらに世界各国からの義勇兵で編成された国際旅団が加わった。反乱軍側には、ドイツからコンドル部隊(空軍義勇兵部隊)と戦車部隊、イタリアからも空軍部隊と陸軍部隊(正規部隊)が派遣された。
 マドリード攻略に固執するフランコは、イタリア軍4個師団でグアダラハラ方面から攻撃をかけるが、大損害を出して敗退。そこで、北部地方への攻勢に作戦を変更した反乱軍は、コンドル部隊の本格的航空支援のもとに大規模な攻撃を開始する。1937年10月にはバスク地方を含む北部全域を制圧する。この時のゲルニカ爆撃は世界に衝撃を与えた。
・末期(1938〜39年)
 南部地域での政府軍の攻勢を撃退した反乱軍は、一気に地中海方向へ攻勢に転じ、カタルーニャ地方とヴァレンシア地方の分断に成功した。しかし、政府軍はエブロ川で攻撃を行い両軍激戦となり双方で2万名以上の戦死者を出す。この頃、ミュンヘン会談をめぐるヨーロッパの政治情勢の変化と、ソ連国内での大粛正の影響によって、ソ連の義勇軍の引き上げと国際旅団の解散があり、政府側はエブロ川攻撃の失敗も重なりますます不利となっていった。
 1939年1月には反乱軍はカタルーニャ地方攻略のための大規模な攻勢を開始し、政府軍を次々に撃破していった。バルセロナもまもなく陥落し、2月にはフランス国境に到達してカタルーニャ地方を完全に制圧した。政府側は、これによって戦意を喪失し、ついに3月末、フランコはマドリードに入城し、4月1日には内乱終結宣言を行った。

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