長いナイフの夜事件(1934年6月30日〜7月2日)


 ヒトラーは、共産党、社会民主党、労働組合といった国内の反対派を一掃したものの、体制内にやっかいな敵が生まれつつあった。エルンスト・レーム率いるSA(突撃隊)である。SAは1921年9月に創設され、党の戦闘部隊として共産党や政敵の攻撃に力を発揮してきた。しかしヒトラーが政権を獲得すると武装した対抗勢力はいなくなり、失業者を吸収し250万を擁すまでに強大化したSAは、古くからの同志であり、ヒトラーを「おまえ」と対等に話すレームの強烈な個性もありヒトラーの統率が効かなくなりつつあった。さらに、レームは、将来SAをドイツ正規軍である国防軍に取って代わろうとする野心を公然とし、「灰色(国防軍の制服色)の岩は褐色(SAの制服色)の濁流に呑み込まれなければならない」と発言していた。そのため、時の国防大臣は、「ドイツの正規軍は国防軍かSAか」という選択を ヒトラーに強いた。このように国防軍とSAとの衝突の深刻化していく中で、将来の戦争には職業軍人を擁している国防軍が必要不可欠と判断したヒトラーはレームの粛正を断行することにした。1929年1月にSS長官となったヒムラーと、警察組織を掌握していたゲーリングは、ライバルであるレームを蹴落とそうとして躍起になっていた。レーム自体には反乱の意志がなかったとされるが、ヒムラーは部下の保安諜報部(SD)長官のハイドリヒを使い、レームの反乱計画を”捏造”させた。
 34年6月30日ミュンヘン郊外のバート・ヴィース・ゼーの温泉で、SS部隊とヒトラーが自ら拳銃を手に、宿泊していたレームらSA幹部を逮捕。レームには自決を求めるが、応じないためシュタデルハイム収容所でテオドール・アイケらSSにより翌日射殺される。1934年6月30日から7月2日のいわゆる「長いナイフの夜」でレームを始めSAの幹部がSS隊員によって逮捕拘禁、処刑されていった。粛正対象はSA幹部のみならず、前首相シュライヒャー夫妻、党内左派のグレゴール・シュトラッサー、ミュンヘン一揆の時の州総督カールまでも殺害された。副首相パーペンは危ういところを助命された。正式には77名が殺害と公表されたものの、実際は200名を越すといわれる。国防相ブロンベルクは、身内から被害者(シュライヒャー、ブレドー(前官房長)が出たものの、粛正を賞賛、ヒトラーは身内を切り捨てたことで国防軍の支持も獲得し、内外の敵を一掃したのである。これらの一連の行動は、「国家の正当防衛」とされたのである。
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