ゴー・ストップ事件(1933(昭和8)年6月17日)



 5.15事件とともに軍部が統帥権を盾に暴走を始めるきっかけとなった事件。

 『大阪朝日』によると、事件はこうである。「昭和八年六月十七日午前十一時ごろ、大阪市北区天神橋筋六丁目の新京阪電車前市電交差点で赤信号なのに歩兵第八連隊第六中隊所属の中村政一1等兵(24)が横断した。これを見ていた曽根崎交通巡査、戸田定夫(27)が注意したところ口論になった。二人は天六巡査派出所内で殴るけるのケンカに発展、中村一等兵は左鼓膜が破れる三週間の負傷、戸田巡査も下口唇に一週間のケガを負った。」

 この事件の発端は、このようなささいな一等兵と巡査のけんかであり、赤信号なのに無視して渡った兵隊に過失があったので、ここで中村一等兵が不注意を認めて謝っていたならば、ことは簡単にすみよくある交通違反の一つとして処理されただろう。ところが、事件は意外な方向へと発展した。

 中村一等兵は「何ら手出しをしないのに巡査に撲られた」と主張し、「停止信号に気づかず横断しかけたところはじめて赤信号に気づいた。線路手前で停止したが、ちょうど自動車がきたので、危険と思い線路を渡った時、戸田巡査が飛んできて後ろから首筋をつかまれた。『見っともないから離してくれ』というのを聞かず、交番へ連行しようとするので更に『行くから放せ』と言っても、どうしても放さないのでふり切った。ところが、同巡査は前から上着をひっつかんで派出所に連行、その際ボタンが全部はずれてしまったので、通行人が『兵隊に無茶するな』と言ったことから、戸田巡査と口論になり、殴られた。その際、よけるために突き飛ばしたので、同巡査の第二ボタンが取れた」(『大阪朝日』六月十八日朝刊)軍と警察の言い分は180 度違った。

 戸田巡査の言い分は全く違っていた。「信号を無視する軍人がいるので注意したところ、注意を聞かず進行して行くものですから、天六の派出所へ同行を求め注意をあたえようとすると、突然、私のアゴを突き上げ二週間のケガをさせ、その上、第二ボタンを引きちぎったのです。たとえ、相手が軍人であろうと私の職分をつくしたことに間違いない」(同)?警察側は「兵士が先に手を出した」と、双方の言い分は180度くい違った。

 そして、二十二日、軍部はこの種の事件では例のない長文の声明書を発表。「中村一等兵は全く抵抗しておらず、仮に非行をしたにしても憲兵隊に通知して引渡せば足る」として「皇軍組成の一分子に対する警察官の不法暴行事件で皇軍感情に関する重大問題」と非難した。それまで、「一兵士一巡査の偶然的事故、警官が皇軍を侮辱したものではない」と黙視していた警察側も俄然緊迫。「軍人と警官が殴り合いをしたのは実に遺憾だが、軍隊が帝国の軍隊なら、警官も帝国の警官で、その間断じて軽重はない。共に国家の重大任務を負担している点にいささかの軽重もあるべきでない」と真正面から受けて立ち、軍部を批判した。

 事件後1ヵ月、大阪憲兵隊があっせん役を降り、中村一等兵は戸田巡査を名誉毀損、傷害などで告訴した。警察側も負けず中村一等兵が交通違反をそれまでに七回も犯していたことを暴露、ドロ試合と化した。事件解決は長びき、第四師団対内務省の争いに発展、互いに意地とメンツから負けられない一戦となった。荒木貞夫陸軍大臣も現地に乗り込み、全国在郷軍人会が応援、警察側も内務省警保局や各府警警察部がバックアップした。和田検事正はなんとか円満解決を目ざしたが、軍側が謝罪と戸田巡査の処罰を要求して強硬姿勢をくずさず事件は完全に暗礁に乗り上げた。ところが、約5ヵ月後の11月18日、和田検事正の調停、白根兵庫県知事の斡旋で急転直下、和解にこぎつけた。

 それには、こういう事情があった。十月中旬から福井県下で陸軍特別大演習があり、天皇が荒木陸軍大臣へ「大阪でゴー・ストップ事件というのがあったが、どうなったのか」と御下問があった。大あわての荒木陸軍大臣は内務省と急きょ、話し合うように指示したのである。ともあれ天皇のツルの一声で解決にこぎつけたわけだが、斡旋内容は互いに双方をたずねてあいさつをかわすというものだった。しかし、解決の共同声明を見ると、警察が軍部に屈伏したことは明らかだった。

 結果として、軍部はこの事件で皇軍の名誉、威信をタテに横車を押し、国内の秩序、警察権を踏みにじり、軍部にかろうじて対抗できた権力集団の警察は屈服し、「赤信号、軍人が渡ればこわくない」の無法が国民注視の中でまかりとおったのである。以後、警察側は軍人に関する事故はすべて監察官に報告し憲兵隊に処理をまかせるという、消極的姿勢となった。

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