アルデンヌ大攻勢(バルジの戦い)〜ヒトラー最後の賭け〜(1944年12月16日〜1945年1月27日)

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(概要)
 第二次世界大戦末期に西部戦線で行われたドイツ軍最後の攻勢作戦。この戦いは、地名からアルデンヌ大攻勢(独:Ardennenoffensive)、指揮した西方軍総司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥からルントシュテット攻勢(独:Rundstedt-Offensive)またはバルジの戦い(英:Battle of the Bulge)として知られるが、ドイツ軍の正式な作戦名は「ヴァハト・アム・ライン"Wacht am Rhein"(ラインの守り作戦)」である。これは、連合軍の防諜機関にこの作戦がライン地方の防衛作戦であると思わせるための名称であった。しかし、作戦開始直前に作戦名が「ヘルプストネーベル"Herbstnebel"(秋霧作戦)」に変更になっている。

(背景)
 連合軍は、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦以後、8月にパリ解放、9月にはドイツ国境まで迫るなど順調が進撃を見せ、年内に戦争終結の声さえ出始めていた。しかし、補給線が伸びきり進撃は限界に達しつつあった。補給はいまだ前線から遠くなってしまったノルマンディー地方の港からのトラック輸送に依存していたのである。連合軍は、9月4日には補給拠点として使用できるベルギーのアントワープ(アントウェルペン)を占領したものの、ドイツ軍は周辺部を押さえて頑強に抵抗をし、補給基地として使用できる状況ではなかった。
 他方、敗走を続けていたドイツ軍は、ドイツ国境線付近で軍を立て直し、薄いながらも戦線を構築することに成功し、連合軍に頑強な抵抗を開始していた。

 連合軍はこの状況を打破、戦争早期終結を目的としてドイツ本土侵攻計画「マーケットガーデン」作戦を9月17日発動したが、計画のずさんさが災いして大失敗に終わる。

 一方東部戦線では、1944年6月22日に開始されたソ連軍の大攻勢「バグラチオン」作戦がポーランド東部で行動の限界点に達しつつあって小休止状態となった。12月の段階で、連合軍・ソ連軍とドイツ軍は完全な膠着状態に陥ってしまった。

 その間ドイツでは、必死の総動員態勢を敷き、また1944年で戦中最高に達した兵器生産力によって生産された兵器をつぎ込むことによって、若干の予備兵力をそろえることに成功していた。しかしその内情は、当時の最新鋭戦車「ティーガー2型」戦車を有する装甲師団もあったが、戦争の長期化によって兵員喪失を生じて各師団とも定員割れの状態であり、その穴埋めとして、素人部隊とも言える練度の低い新編成の国民擲弾兵師団も相当含まれていた。

 この機会に乗じてヒトラーはこの予備兵力を使って一大反攻作戦を行うことを計画する。戦線のどこかで敵に大損害を与えて、あわよくば講和に持ち込もうとする目論見であった。各種検討の結果、反攻場所は西部戦線のアルデンヌの森に決まった。当時アルデンヌの森は、「幽霊戦線」と呼ばれる静けさで、戦闘も散発的にしか行われない地帯であった。そのため、連合軍はここに戦闘で疲弊して再編成中や戦闘経験のない新米師団しか配置していなかった。一方、ヒトラーにとっては、4年前の華々しいフランス侵攻の出発点とも言える地であった。
 ドイツ軍はこのアルデンヌの森を突破して一気にアントワープを奪回、西部戦線北側の連合軍を包囲壊滅させるという“奇襲”ともいえる作戦だった。決行は悪天候のため連合軍の制空権を無力化にできる12月に定められ、そして1944年12月16日、ついにドイツ軍の進撃が始まった。

(作戦兵力)
 この作戦には4個軍の作戦投入が決定された
・第6SS装甲軍(ヨーゼフ・ディートリッヒSS上級大将)
1944年10月26日に新しく編成された軍で、武装親衛隊の精鋭部隊である第1SS装甲師団「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」および第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」を有していた。彼らは主要攻撃部隊として北部の攻撃を行い、その目標はアントワープ(アントウェルペン)の確保である。

・第5装甲軍(ハッソ・フォン・マントイフェル中将)
中央攻撃ルートに割り当てられブリュッセルの確保が主要目的。

・第7軍(エーリッヒ・ブランデンベルガー大将)
側面の支援と南部の攻撃を担当。

・第15軍(フォン・ツァンゲン大将)
最北部に配置された再編成部隊で、任務はその地域のアメリカ軍勢力を釘付けにし攻撃に最適な状況を作り出すことである。

作戦計画(画像をクリックすると大きくなります)

(作戦推移と結果)
 作戦当初は、ドイツ軍の圧倒的優位に戦局は推移し、連合軍は各地で撃破されていった。しかし、攻勢数日で早くも燃料弾薬の不足が目立ち始め、進撃速度は低下していった。また、交通の要衝バストーニュを包囲したものの、占領することができず今後の戦局に致命的な影響を与えることになった。12月24日までには、補給線の限界を超えたドイツ軍の進撃はムーズ川の近くで完全に失速した。

 これに対し、連合軍は北側からは英国モントゴメリーの第21軍集団を再編して反撃に当たらせ、南からはパットン率いる第12軍集団第3軍の機甲師団及び歩兵師団が反撃に転じ、ドイツ軍突出部(バルジ)を締め上げ始めた。また、12月23日には天候の回復により連合軍の地上部隊は空軍の支援を受けることができ、包囲された地帯への補給が可能となり、また燃料不足で立ち往生していたドイツ戦車部隊を次々と殲滅していった。
バストーニュ救出に向かっていたアメリカ第3軍は、12月26日の16時50分に第4機甲師団の一部がバストーニュに達して包囲は破られ、1月13日ドイツ軍はバストーニュから退却した。

 1月23日にはドイツ軍司令部により、作戦の停止が決定された。戦闘は公式には1945年1月27日に終了した。

 この戦いにおけるアメリカ軍の戦死者・負傷者・行方不明・捕虜は合わせて75,522人、イギリス軍の戦死者は1,408人、ドイツ軍の戦死者・負傷者・行方不明・捕虜は合わせて67,675人だった。

 この戦いによって、連合軍はドイツ本土侵攻を「数ヶ月」程度伸ばさざるを得なかったが、ドイツ軍は予備兵力を使い果たしてしまった。このため今後の戦いで有効な作戦を採ることが不可能となり、連合軍やソ連軍側はドイツ本土侵攻を速やかに行うことが可能となった。まさにドイツ軍にとって、「終わりの始まり」であった。

実際の推移(画像をクリックすると大きくなります)


(地図)

作戦計画(画像をクリックすると大きくなります)

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