ソ連軍の夏季大攻勢(作戦名「バグラチオン」)(1944年6月22日〜8月末日)

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(概要)
 「バグラチオン」とは、ナポレオンのロシア遠征時に活躍したロシアの将軍ピョートル・イワノヴィッチ・バグラチオンに由来し、ナポレオンに「ロシア軍でもっとも勇敢な将軍」と賞賛された。
 作戦前の戦線は、1943年のクルスク戦でドイツ軍が敗れた後の1943年末から1944年5月にかけ、ドニエプル川右岸のウクライナからドイツ軍を掃討しており、ソ連領で回復していない地域は白ロシア地方のみとなっていた。この白ロシア地方には、ドイツ軍主力として装甲兵力を含む多数の野戦部隊を擁する中央軍集団が防衛していたが、前年のクルスク戦以降その地上兵力は消耗していた。さらに西方においてはさまざまな情報から連合軍によるフランスへの上陸作戦は目前であるとドイツ側も察知しており、ドイツ軍は主戦場である東部戦線から西部戦線への部隊の移動、補充をする必要が生まれた。ついに6月6日にノルマンディー上陸作戦がおこなわれるにいたって、西部戦線への地上兵力や航空兵力の抽出が顕著となり東部戦線の戦力は大きく弱体化していた。また、この頃から本格化したドイツ及びドイツ占領地区への爆撃に対抗するためにドイツ空軍、特に戦闘機が西部戦線に移動され、東部戦線の防空力も低下していた。
 バルト海から黒海にわたる両軍の戦線は、中央軍集団が作戦域としている白ロシア地方がソ連側に大きくつきだした形を取っていたため、今後の独ソ戦を優位に進めるために、ドイツへの最短経路である白ロシア回復と、消耗していたとはいえ東部戦線で最大の兵力を有する中央軍集団へ損害を与えることが不可欠となっていた。
 一方、ドイツ側もソ連軍が夏季攻勢に出ると予想していたが、ガリツィア方面からバルト海にめがけて突出部を切断する大攻勢を加え、北方・中央両軍集団の背後を遮断してドイツ本土への退路を一気に断つ可能性が高いと結論づけた。その結果、中央軍集団は第4装甲軍など主力部隊を側面に移動させ、南接する北ウクライナ軍集団との協調にあてた。これにより、ミンスク=モスクワ街道の正面は戦力が大きく低下することとなる。

(作戦兵力及び損害)
作戦兵力
ドイツ側 ソ連側
800,000
戦車 553輌
航空機 839機
火砲 9,500門
1,700,000
戦車 4,008輌
航空機 6,334機
火砲 24,000門
損害
ドイツ軍
ドイツ側発表
戦死 260,000
戦傷 250,000
捕虜 116,000
ソ連側発表
戦死 400,000
戦傷 590,000
捕虜158,000
ソ連軍
戦死 178,507
戦傷 587,308

(作戦推移と結果)
 3年前にドイツ軍がソ連に侵攻した「バルバロッサ作戦」開始日と同日の6月22日未明、空爆とともに一斉に三方向から中央軍集団に攻撃を開始した。急進するソ連軍に兵数の劣るドイツ軍は奮戦を見せたものの、圧倒的な兵数のソ連軍によって各所で分断され、統一した作戦のもとで連携して反撃することすら困難な状況になった。この大攻勢で、7月3日までには白ロシアの首都ミンスクが占領され、この日までにドイツ軍は25個師団が壊滅したと見られる。
 8月末にはドイツ軍は、ワルシャワ東方20キロのヴィスワ川東岸まで押し込まれた。ドイツ中央軍集団は攻勢前には90万人とされた兵力が攻勢後には半減し、事実上の壊滅状態となった。
 一方ソ連軍も被害は甚大で、ドイツ軍は新しく中央軍集団司令官になったモーデル元帥のもと事前に組み上げられた拠点陣地と機動防御戦術を有効に活用した粘り強い防御戦を行い、また隣接する南方軍集団からの側面援護により、攻撃開始から2週間でソ連軍の攻勢の勢いは鈍っていき、東部戦線全体の戦線崩壊という最悪の事態はなんとか避けられた。
 ソ連軍は70万人以上の死傷者を出したが、戦車などの物的被害はもちろんのこと、人的資源の枯渇しつつあった上に、たくさんの熟練兵を失ったドイツにはこの後、ソ連軍に対する攻勢はもちろん、有効な防御戦構築すら不可能となった。また、6月6日には英米連合軍「ノルマンディー上陸作戦」により、第二戦線(西部戦線)が形成されつつあり、ドイツは二方向から敵に押し出され、ドイツの敗北は決定的となった。

戦線の推移(1)・・・青色の部分がドイツ軍が失った地域
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戦線の推移(2)・・・1943年8月1日〜1944年12月1日
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