対米「覚書」(全文)

 申すまでもないことであるが、本件「覚書」を準備するにあたっては、タイピストなどは絶対に使用せず、秘密保持にはこの上とも慎重に慎重を期せられたし。
 (昭和十六年)十二月六日
  陸軍二五八四四

「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇二号(館長符号、別電)」

帝国政府の対米通牒覚書
一六、一二、六


一、帝国政府ハ、「アメリカ」合衆国政府トノ間ニ友好的諒解ヲ遂ゲ、両国共同ノ努力ニ依リ、太平洋地域ニ於ケル平和ヲ確保シ、以テ世界平和ノ招来ニ貢献セントスル真摯ナル希望ニ促レ、本年四月以来、合衆国政府トノ間ニ両国国交ノ調整増進並太平洋地域ノ安定ニ関シ誠意ヲ傾倒シテ交渉ヲ継続シ来リタル所、過去八月ニ亘ル交渉ヲ通ジ、合衆国政府ノ固持セル主張並此間合衆国及ビ英国ノ帝国ニ対シ執レル措置ニ付キ、茲ニ率直ニ其ノ所信ヲ合衆国政府ニ開陳スルノ光栄ヲ有ス。

二、東亜ノ安定ヲ確保シ、世界ノ平和ニ寄与シ、以テ万邦ヲシテ各其ノ所ヲ得シメントスルハ帝国不動ノ国是ナリ。曩ニ中華民国ハ帝国ノ真意ヲ解セズ、不幸ニシテ支那事変ノ発生ヲ見ルニ至レルモ、帝国ハ平和克服ノ方途ヲ講ズルト共ニ、戦禍ノ拡大ヲ防止センガ為始終最善ノ努力ヲ致シ来レリ。客年九月、帝国ガ独伊両国トノ間ニ三国条約ヲ締結シタルモ、亦右ノ目的ヲ達成センガ為ニ外ナラズ。
然ルニ、合衆国及英帝国ハ、有ユル手段ヲ竭シ重慶政権ヲ援助シテ、日支全面平和ノ成立ヲ妨碍シ、東亜ノ安定ニ対スル帝国ノ建設的努力ヲ控制セルノミナラズ、或ハ蘭領印度ヲ牽制シ、仏領印度支那ヲ脅威シ、帝国ト此等諸地域トガ相携ヘテ共栄ノ理想ヲ実現セントスル企図ヲ阻害セリ。殊ニ帝国ガ仏国トノ間ニ締結シタリシ議定書ニ基キ、仏領印度支那共同防衛ノ措置ヲ講ズルヤ、合衆国政府及英国政府ハ、之ヲ以テ自国領域ニ対スル脅威ナリト曲解シ、和蘭国ヲモ誘ヒ資産凍結令ヲ実施シ、帝国トノ経済断交ヲ敢テシ、明カニ敵対的態度ヲ示スト共ニ、帝国ニ対スル軍備ヲ増強シ、帝国包囲ノ態勢ヲ整ヘ、以テ帝国ノ存立ヲ危殆ナラシムルガ如キ情勢ヲ誘致スルニ至レリ。右ニ拘ラズ帝国総理大臣ハ、本年八月事態ノ急速収拾ノ為、合衆国大統領ト会見シ、両国間ニ存在スル太平洋全般ニ亘ル重要問題ヲ討議検討センコトヲ提議セリ。然ルニ合衆国政府ハ、右申入ニ主義上賛同ヲ与エ、乍ラ之ガ実行ハ両国間重要問題ニ関シ、意見一致ヲ見タル後トスベシト主張シテ譲ラズ。

三、仍テ帝国政府ハ、九月二十五日従来ノ合衆国政府ノ主張ヲモ充分考慮ノ上、米国案ヲ基礎トシ、之ニ帝国政府ノ主張ヲ取入レタル一案ヲ提示シ議論ヲ重ネタルガ、双方ノ見解ハ容易ニ一致セザリシヲ以テ現内閣ニ於テハ、従来交渉ノ主要難点タリシ諸問題ニ付、帝国政府の主張ヲ更ニ緩和シタル修正案ヲ提示シ、交渉ノ妥結ニ努メタルモ、合衆国政府ハ終始当初ノ原案ヲ主張シ、協調的態度ニ出デズ交渉ハ依然渋滞セリ、茲ニ於テ十一月二十日ニ至リ帝国政府ハ、両国国交ノ破綻ヲ回避スル為、最善ノ努力ヲ尽ス趣旨ヲ以テ枢要且緊急ノ問題ニ付、公正ナル妥結ヲ図ル為前記提案ヲ簡単化シ(一)両国政府ニ於テ仏印度外ノ南亜細亜及南太平洋地域ニ、武力進出ヲ行ハザル旨ヲ確約スルコト(二)両国政府ニ於テ、蘭領印度ニ於テ其ノ必要トスル物資ノ獲得ガ、保証セラルル様相互ニ協力スルコト(三)両国政府ハ、相互ニ通商関係ヲ資産凍結前ノ状態ニ復帰スルコト、合衆国政府ハ所要ノ石油ノ対日供給ヲ約スルコト(四)合衆国政府ハ、日支両国ノ和平ニ関スル努力ニ支障ヲ与フルガ如キ行動ニ出テザルコト(五)帝国政府ハ、日支間和平成立スルカ又ハ太平洋地域ニ於ケル公正ナル平和確立スル上ハ、現ニ仏領印度支那ニ派遣セラレ居ル日本軍隊ヲ撤退スベク、又本了解セバ現ニ南部仏領印度支那ニ駐屯中ノ日本軍ハ、之ヲ北部仏領印度支那ニ移駐スルノ用意アルコト等ヲ内容トスル、新提案ヲ提示シ同時ニ支那問題ニ付テハ、合衆国大統領ガ既ニ言明シタル通日支間和平ノ紹介者ト為ルニ異議ナキモ、日支直接交渉開始ノ上ハ、合衆国ニ於テ日支和平ヲ妨碍セザル旨ヲ約センコトヲ求メタルガ、合衆国政府ハ右新提案ヲ受諾スルヲ得ズト為セルノミナラズ、援蒋行為ヲ継続スル意志ヲ表明シ、次テ更ニ前記ノ言明ニ拘ラズ、大統領ノ所謂日支間和平ノ紹介ヲ行フノ時期猶熟セストテ之ヲ撤回シ、遂ニ十一月二十六日ニ至リ、偏ニ合衆国政府ガ従来固執セル原則ヲ強要スルノ態度ヲ以テ、帝国政府ノ主張ヲ無視セル提案ヲ為スルニ至リタルガ、右ハ帝国政府ノ最モ遺憾トスル所ナリ。

四、抑本件交渉開始以来帝国政府ハ、終始専ラ公正且謙抑ナル態度ヲ以テ、誠意妥結ニ努メ屢難キヲ忍ビテ能フ限リノ譲歩ヲ敢テシタルガ、交渉上重要事項タリシ支那問題ニ関シテモ協調的態度ヲ示シ、合衆国政府ノ提唱セル国際通商上ノ無差別待遇原則遵守ニ付テハ、本原則ノ世界各国ニ行ハレンコトヲ希望シ、且其ノ実現ニ順応シテ之ヲ支那ヲモ含ム太平洋地域ニ適用スル様努力スベキ旨ヲ表明シ、尚支那ニ於ケル第三国ノ公正ナル経済活動ハ、何等之ヲ排除スルモノニアラザルコトヲモ闡明スルガ、更ニ仏領印度支那ヨリノ撤兵ニ付テモ情勢緩和ニ資スルガ為、前述ノ如ク南部仏領印度支那ヨリノ即時撤兵ヲ進ンデ提議スル等、極力妥協ノ精神ヲ発揮セルハ、合衆国政府ノ夙ニ諒解スル所ナリト信ズ。
然ルニ合衆国政府ハ、常ニ理論ニ拘泥シ、現実ヲ無視シ其ノ拘懐スル非実際的原則ヲ固執シテ、何等譲歩セス徒ニ交渉ヲ遷延セシメタルハ、帝国政府ノ諒解ニ苦シム所ナルガ、特ニ左記諸点ニ付テハ、合衆国政府ノ注意ヲ喚起セザルヲ得ズ。

(一)合衆国政府ハ、世界平和ノ為ナリト称シテ、自己ニ好都合ナル諸原則ヲ主張シ之ガ採択ヲ帝国政府ニ迫レル処、世界ノ平和ハ現実ニ立脚シ、且相手国ノ立場ニ理解ヲ持シ相互ニ受諾シ得ベキ方途ヲ発見スルコトニ依リテノミ具現シ得ルモノニシテ、現実ヲ無視シ一国ノ独善的主張ヲ相手国ニ強要スルガ如キ態度ハ、交渉ノ成立ヲ促進スル所以ノモノニアラズ。
今般合衆国政府ガ日米協定ノ基礎トシテ提議セル諸原則ニ付テハ、右ノ中ニハ帝国政府トシテ趣旨ニ於テ賛同ニ吝ナラザルモノアルモ、合衆国政府ガ直ニ之ガ採択ヲ要望スルハ、世界ノ現状ニ鑑ミ、架空ノ理念ニ驕ラルルモノト云フノ外ナシ。
尚、日、米、英、支、蘇、蘭、泰七国間ニ多辺的不可侵条約ヲ締結スルノ案ノ如キモ、徒ニ集団的平和機構ノ旧構想ヲ追フノ結果、東亜ノ実情ト遊離セルモノト云フノ外ナシ。
(二)合衆国政府今次ノ提案中ニ、「両国政府ガ第三国ト締結シ居ル如何ナル協定モ、本取極ノ根本目的タル太平洋全域ノ平和確保ニ矛盾スルガ如ク解釈セラレザルコトニ付、合意ス」トアルハ即チ、合衆国政府ガ欧州戦争参入ノ場合ニ於ケル帝国ノ三国条約上ノ義務履行ヲ牽制セントスル意図ヲ以テ、提案セルモノト認メラルルヲ以テ、右ハ帝国政府ノ受諾シ得ザル所ナリ。
由来合衆国政府ハ、其ノ自己ノ主張ト理念トニ眩惑セラレ、自ラ戦争拡大ヲ企画シツツアリト謂ワザルヲ得ズ、合衆国政府ハ、一方太平洋地域ノ安定ヲ策シ自国ノ背後ヲ安固ト為シツツ、他方英帝国ヲ援ケ欧州新秩序建設ニ邁進スル独伊両国ニ対シ、自衛権ノ名ノ下ニ進ンデ攻撃ヲ加ヘントスルモノナルガ、右ハ太平洋地域ニ平和的手段ニ依リ、安定ノ基礎ヲ築カントスル幾多ノ原則的主張ト、全然矛盾背馳スルモノナリ。
(三)合衆国政府ハ、其ノ固持スル主張ニ於テ、武力ニ依ル国際関係処理ヲ排撃シツツ、一方英帝国等ト共ニ経済力ニ依ル圧迫ヲ加エツツアル処、斯ル圧迫ハ場合ニ依リテハ武力圧迫以上ノ非人道的行為ニシテ、国際関係処理ノ手段トシテ排撃セラルベキモノナリ。
(四)合衆国政府ノ意図ハ、英帝国其ノ他ノ諸国ヲ誘引シ、支那其ノ他東亜ノ諸地域ニ対シ、其ノ従来保持セル支配的地位ヲ維持強化セントスルモノト見ルノ外ナキ処、東亜諸国ガ過去百有余年ニ亘リ、英米ノ帝国主義的搾取政策ノ下ニ現状維持ヲ強ヒラレ、両国繁栄ノ犠牲タルニ甘ンセラルヲ得ザリシ歴史的事実ニ鑑ミ、右ハ万邦ヲシテ各其ノ所ヲ得シメントスル帝国ノ根本国策ト全然背馳スルモノニシテ、帝国政府ノ断ジテ容認スル能ハザル所ナリ。
合衆国政府今次提案中、仏領印度支那ニ関する規定ハ正ニ右態度ノ適例ト称スベク、仏領印度支那ニ関シ仏国ヲ除キ日、米、英、蘭、支、泰六国間ニ、同地域ノ領土主権ノ尊重竝ニ貿易及通商ノ均等待遇ヲ約束セントスルハ、同地域ヲ六国政府ノ共同保証ノ下ニ立タシメントスルモノニシテ、仏国ノ立場ヲ全然無視セル点ハ暫ク措クモ、東亜ノ事態ヲ紛糾ニ導キタル最大原因ノ一タル、九国条約類似ノ体制ヲ新ニ仏領印度支那ニ拡張セントスルモノト観ルベキモノニシテ、帝国政府トシテ容認シ得ザル所ナリ。
(五)合衆国政府ガ支那問題ニ関シ、帝国ニ要望セル所ハ、或ハ全面撤兵ノ要求ト云ヒ或ハ通商無差別原則ノ無条件適用ト云ヒ、何レモ支那ノ現実ヲ無視シ、東亜ノ安定勢力タル帝国ノ地位ヲ覆滅セントスルモノナル処、合衆国政府ガ今次提案ニ於テ重慶政権ヲ除ク、如何ナル政権ヲモ軍事的政治的且経済的ニ支持セザルコトヲ要求シ、南京政府ヲ否認シ去ラントスル態度ニ出テタルハ、交渉ノ基礎ヲ根底ヨリ覆スモノト云フベク、右ハ前記援蒋行為停止ノ拒否ト共ニ合衆国政府ガ、日支間ニ平常状態ノ復帰及東亜平和ノ回復ヲ阻害スルノ意思アルコトヲ実証スルモノナリ。
五、要之今次合衆国政府ノ提案中ニハ、通商条約締結、資産凍結令ノ相互解除、円弗為替安定等ノ通商問題、乃至支那ニ於ケル治外法権撤廃等本質的ニ不可ナラザル条項ナキニアラザルモ、他方四年有余ニ亘ル支那事変ノ犠牲ヲ無視シ、帝国ノ生存ヲ脅威シ権威ヲ冒涜スルモノアリ、従テ全体的ニ観テ帝国政府トシテハ交渉ノ基礎トシテ、到底之ヲ受諾スルヲ得ザルヲ遺憾トス。

六、尚帝国政府ハ、交渉ノ急速成立ヲ希望スル見地ヨリ、日米交渉妥結ノ際ハ、英帝国其ノ他ノ関係国トノ間ニモ同時調印方ヲ提議シ、合衆国政府モ大体之ニ同意ヲ表示セル次第アル処合衆国政府ハ英、濠、蘭、重慶等ト屡協議セル結果、特ニ支那問題ニ関シテハ重慶側ノ意見ニ迎合シ、前記諸提案ヲ為セルモノト認メラレ、右諸国ハ何レモ合衆国ト同ジク帝国ノ立場ヲ無視セントスルモノト断ゼザルヲ得ズ。

七、惟フニ、合衆国政府ノ意図ハ、英帝国其ノ他ト苟合策動シテ、東亜ニ於ケル帝国ノ新秩序建設ニ依ル平和確立ノ努力ヲ妨碍セントスルノミナラズ、日支両国ヲ相闘ハシメ、以テ英米ノ利益ヲ擁護セントスルモノナルコトハ、今次交渉ヲ通ジ明瞭ト為リタル所ナリ。
斯テ日米国交ヲ調整シ、合衆国政府ト相携ヘテ太平洋ノ平和ヲ維持確立セントスル帝国政府ノ希望ハ遂ニ失ハレタリ。
 仍テ帝国政府ハ、茲ニ合衆国政府ノ態度ニ鑑ミ、今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニスルヲ得ズト認ムル外ナキ旨ヲ、合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ。

http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index05.html

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