○言問橋と東京大空襲

トップ戦跡写真館>言問橋と東京大空襲
(2008.8.26作成)

関東大震災後の「帝都復興計画」のひとつとして1928(昭和3)年に完成した橋。
「言問」という名称は、「伊勢物語」の主人公、在原業平の詠んだ、

名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

という歌に因むといわれる。

1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲の際には、火に追われた人々が「川の向こうに行けば助かる」と思い言問橋を渡ろうとして両岸から人々が殺到した。まもなくして橋の上では身動きできない混乱状態となり、やがて橋の上にも炎が走り、耐えかねた人々は次々と欄干から身を躍らせ、死体で埋まった隅田川に落ちた。しかし、極寒の3月で水温が低く、また厚着していた人が多かったため、溺死するものが続発、その上、水に面していない部分は飛んでくる火の粉に焼かれた。一方、橋の上に残った人も火で焼かれ、さながら火焔地獄と化した。空襲が終わったあと、隅田川は一面死体が浮き、言問橋の上にも河川敷にも積み重なった累々たる死体の山が築かれていた。

 1992(平成4)年から実施された改修工事で切り出された欄干の基部の縁石(色が黒ずんで変色している)が隅田公園に展示されている。ただし、橋の親柱は、一部未改修のため現在も東京大空襲で焼死体から流れ出た人の脂の黒ズミが残っている。

言問橋外観

現在の言問橋

川原敷、東京大空襲ではたくさんの死体でいっぱいになった

橋の親柱。現在も東京大空襲で焼死体から流れ出た人の脂の黒ズミが残っている。
東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
碑文
隅田公園のこの一帯は、 昭和20年3月10日の東京大空襲により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後荼毘に付され東京慰霊堂(隅田区)に納骨された。 戦後四十年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調整するとともに、この地に碑を建立した。

写真撮影日 2008(平成20)年8月15日

トップ戦跡写真館>言問橋と東京大空襲