◆第4 フランスはなぜドイツに簡単に破れたのか?

 第二次世界大戦勃発時、フランスは自他共に認める世界最強の陸軍を有した国であった(野戦師団及び要塞師団で108個)。しかし、なぜ、ドイツ軍相手にわずか一ヶ月であっけなく崩壊したのであろうか。それで、いくつかの要因について検証していこうと思う。

1.マジノ要塞線の存在
 第一次世界大戦で連合国の中で最大の人的損害を出し、また国土が戦場になったことで、経済的な損失が多かったフランスは、損害を最小限に済ませるために、国境に要塞線の建設を思い立った。時の国防大臣アンドレ・マジノにちなんでマジノ要塞線と名付けられたが、このマジノ要塞線建設で、ほぼすべての国防予算を使い果たし、その間、新兵器開発・生産が行うことができず、結果として兵器が旧式化してしまった。実際、戦車について言えば、数的な主力は、すでに博物館ものの、第一次世界大戦時代に活躍した旧式のルノーR35軽戦車であったし、空軍力もドイツ軍に比べて弱体であった。
 また、要塞線の存在自体が、フランス人に多大な信頼を与えてしまった(マジノ・コンプレックス)。これだけの費用をかけたのだから大丈夫という一種の妄想にも似た信仰である。しかし、マジノ線には根本的な欠陥があった。それは政治的な配慮から、対ベルギー国境にマジノ線がなかったことで、ドイツ軍がここを通って進入すればマジノ線を難なく迂回し、マジノ線を無力化できる危険性があった。しかも、先の第一次世界大戦でドイツ軍がベルギーを通ってフランスに侵攻した前例もあり、今回も十分にあり得ることであった。そこで、英仏連合軍は、この対ベルギー国境に大軍を配置し、この欠点を補強しようとした。

2.戦略的な間違い
 次に、この対ベルギー国境に配置された大軍の戦略的な運用が問題となってくる。英仏はドイツ軍が第一次世界大戦と同じ「シュリーフェン計画」に沿って攻めてくるだろうと想定した。そのため、ドイツ軍が侵攻した場合、すばやくベルギーに救援軍をおくってドイツ軍を押し出そうという体制を整えていた。また、広い戦線に十分な兵力を配置することは到底不可能であったので、ところどころ「手抜き」をしなければならなかった。その一つとして、マジノ線のちょうど北辺と英仏連合軍戦線南辺との間にあるアルデンヌの森があった。この森がドイツ戦車兵力の進入を阻むと考えたためである。しかし、実際に戦車を通したことはなく、たぶん無理であろうという憶測の範囲内でしかなかった。
 それに対してドイツ軍はシュリーフェン計画を逆手に取った作戦を立案した。まずはおとりの軍をベルギーに侵攻させて、英仏軍をおびき出し、装甲兵力を主体とした主力軍が手薄なアルデンヌの森を突破し、英仏軍の背後を回って、イギリス海峡に達し、英仏軍主力を包囲殲滅する作戦である(立案者の名前にちなんで「マンシュタイン計画」と呼ばれる)。結果として、アルデンヌの森突破は成功し、英仏連合軍を包囲し、無力化することに成功する。
 結論として、英仏連合軍はドイツが前大戦と同じ「シュリーフェン計画」に沿って攻めてくるだろう、また、アルデンヌの森がドイツ装甲兵力の進入を阻んでくれるだろうという既成概念というか思いこみに囚われ、結果としてドイツ軍に逆手を取られてしまうということになったのである。

3.統一的な指揮系統がなかったこと
 フランス軍には、統一した指揮系統がなかったことも致命的であった。政府首班であったダラディエにはヒトラーやルーズヴェルトのように、最高指揮権を持っていなかった。ルーズヴェルトの場合は、憲法によって、陸海空軍の総司令官となるという規定があり、ヒトラーは全権委任法によって「ヒトラー=憲法」であったため、国防軍を完全に掌握していたのに比べ、フランスだけには、このような臨時措置法を持っていなかったのである。国防省はあったが、旧式の軍事省を名称変更しただけであった。それでは、国防軍参謀総長であったガムラン将軍はどうであるか。陸海空軍はそれぞれ独立していて、彼にも統一的な権限を持っておらず、彼の権限については、「軍事博士でなければ理解不能」と言われるくらい難解なものであった。せめて、陸軍の最高司令官として、主要戦線つまり、北東戦線で唯一の最高司令官でなければならなかったが、そうではなく、北東戦線の最高司令官は、北東方面総司令官のジョルジュ将軍であったが、彼の隷下の軍隊の任免権はガムラン将軍にあり、ガムラン将軍はジョルジュ将軍の部下との間に指揮命令系統を有していた。と言う風に、つまりはフランス軍には二人の最高司令官を有していたことになり、言い換えれば絶対的な指揮官が不在であったのである。
 さらに混乱は、参謀本部にまで及び、ガムランの参謀本部とジョルジュの参謀本部は完全に独立し、地理的にも離れたところにいた。ガムラン自身は、パリ近郊のバンセンヌ要塞に司令部を置いた。信じられないことであるが、この司令部には、前線及び政府のあったパリへの無線施設や直通電話もなく、伝書鳩でさえもなく、1日に1回の伝令が定時報告に来るというていたらくであり、ことに即応できる状態ではなかった。
 このように、ドイツ軍侵攻の1940年5月時点で、全軍の指揮を担うべき男(ガムラン)が、完全に陸の孤島に閉じこもって、外界との連絡を拒んでいたのはまさに異常としかいいようがない。

4.戦車運用と歩兵自動車化の失敗
 第一次世界大戦の傑作戦車として名高いルノーR35軽戦車を作り、また歩兵の輸送に自動車を本格的に導入し、もっとも近代的な軍隊と称されたフランス軍であったが、戦後はむしろ、先祖帰りともいえる逆の方向に向かってしまった。すなわち、自動車に変わり、馬匹が歩兵輸送の手段に変わった。
 また、戦車についても、従来通りの歩兵の支援が目的と位置づけ、戦車を各歩兵師団に分散配置てしまったのである。ド・ゴールら一部の将校がドイツのような戦車を集中配備した装甲師団の創設を唱えたが、これが認められたのは第二次世界大戦勃発直前であり、数も3個師団のみであり、戦局を左右することはできなかった。

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