太平洋戦争勃発の原因
(2009.5.23作成)

 太平洋戦争が勃発した原因の一つとして、「軍部の暴走」がまずあげられるが、この軍部の暴走のもととなったのが「統帥権」の扱いと「軍部大臣現役武官制」であった。

◎統帥権について
 統帥権とは、軍隊の最高指揮権のことであり、戦前は天皇の大権の一つとされて、大日本帝国憲法(明治憲法)では下記のとおり規定された。

第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

 その内容は陸海軍の組織と編制などの制度、および勤務規則の設定、人事と職務の決定、出兵と撤兵の命令、戦略の決定、軍事作戦の立案や指揮命令などの権である。1878(明治11)年の参謀本部独立により、軍政(人事、予算などの軍に関する行政事務)と軍令(作戦立案に関する統帥事務)は分離され、天皇は軍令については、陸軍参謀総長及び海軍軍令部長の輔弼(天皇の権能行使に対し、助言を与えること)、軍政については陸軍大臣及び海軍大臣の補弼を受け陸海軍を統帥した。

 明治期より第一次世界大戦時までは、元勲・藩閥が政治・軍事両面を掌握していたことから、後世に統帥権独立をめぐって起きたような問題が顕在化しなかった

 それが明白になったのがロンドン海軍軍縮条約に関しての統帥権干犯問題であった。

 第一次世界大戦後、戦場となったヨーロッパでは経済的、人的損害が甚大であったため、国民からの厭戦気分の高まり、さらに1929年に起こった世界大恐慌による経済的大打撃によって国家財政は逼迫し、金のかかる軍隊の縮小、すなわち軍縮の気運がいっそう高まった。この中で調印されたのが、ロンドン海軍軍縮条約をはじめとする軍縮条約であった。

 交渉は、日米の対立もあり難航したが、米の妥協案によって、主力艦(戦艦クラス)についてはワシントン条約による建造休止期限を1931年末から1936年末に延長すること、補助艦(巡洋艦以下クラス)については補助艦総括で日本は対米6割9分7厘5毛、大型巡洋艦で6割とするが、アメリカは3隻の起工を遅らせて、1936年までの条約期間中は7割とすること、潜水艦は3国とも52,700トンとすることなどで妥協案が成立した。

 交渉に先立って日本では補助艦総括対米7割、大型巡洋艦対米7割、潜水艦自主的保有量78,000トンが必要であるとする海軍と、財政緊縮と国際協調の立場から軍縮を主張する濱口内閣が対立しており、妥協案についても加藤寛治軍令部長らの猛烈な反対があった。だが岡田啓介軍事参議官らの努力もあって妥協が成立、4月22日に条約は調印された。ちなみに、海軍側の要求は補助艦艇対米7割、条約では対米6割9分7厘5毛と、0.025少ないだけである。トン数にすると6,000トン程度であった。 また、当時の日米の国力差を考えると対米7割弱という条件は破格に近いものであり、実情は日本にかなり有利な内容であった。

 しかし問題は、1930(昭和5)年4月下旬に始まった第58帝国議会(特別議会)で起こった。この年2月の総選挙で大敗した野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎が衆議院で、「軍令部の意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」との攻撃を、外交・軍事両面にわたり穏健政策を進めた民政党濱口雄幸内閣に対して行なったからである。続いて枢密院議長倉富勇三郎もこれに同調する動きを見せた。

 そもそも、それまで常備兵額を定めるのは「統帥権」ではなく「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム(第12条)」と規定されていた「編成大権」の管轄事項であり、予算が重要に絡む事項であったため、予算編成権を有していた内閣(海軍省)がずっと決め、それを統帥部が承認して決まっていた。誰もそれを統帥権の干犯だとは思ってなかった。

 政友会の目的は、海軍の強硬派と連携して統帥権干犯を口実にした倒閣にあったが、やがてこうした反対論は同条約に不満を持つ軍令部の反対派や右翼団体を大いに刺激した。政友会に呼応して加藤軍令部長が6月、統帥権干犯を批判し天皇に辞表を提出したものの、条約自体は、7月末から批准のため枢密院での審査に入り、世論の支持と元老及び内大臣の了解を背景とした濱口首相らの断固とした態度から帝国議会と枢密院を押し切って(枢密院本会議を通過は10月1日)、10月2日天皇の裁可を受け批准の運びとなる。

(その後の影響)
 その後、同年11月14日、濱口雄幸首相は右翼団体員に東京駅で狙撃されて重傷を負い(翌年8月26日死亡)、濱口内閣も1931年(昭和6年)4月13日総辞職する。軍部の力を借りて濱口雄幸内閣倒閣に成功し、後継総理となった政友党総裁の犬養毅は軍縮を行おうとしたため、後に1932年5月15日に起こったいわゆる五・一五事件によって皮肉にも決起した青年将校によって暗殺された。この五・一五事件によって、以後政党内閣は成立せず、加藤高明内閣以来続いた政党政治が終焉することとなる。ちなみに、犬養と共に統帥権干犯として濱口内閣を攻撃した鳩山一郎は、戦時中には軍の圧力により逼塞状態におかれ、戦後に総理就任を目前にしてGHQから、この事を追及されて、軍部の台頭に協力した軍国主義者として公職追放となる皮肉な歴史を辿る事となった。

 なお、海軍内部ではこの過程において条約に賛成する「条約派」とこれに反対する「艦隊派」という対立構造が生まれたが、後に「大角人事」による条約派幹部提督の一掃によって艦隊派の勝利に終わる。

 この後、「統帥権の独立」の名の下に下記の事件に象徴されるような軍部の暴走がはじまり、日本は戦争の道へと突き進んでいくこととなる。
 満州事変(1931(昭和6)年9月18日)
 五・一五事件(1932(昭和7)年5月15日)
 ゴー・ストップ事件(1933(昭和8)年6月17日)
 二.二六事件(1936(昭和11)年2月26日)

◎軍部大臣現役武官制
 軍部の大臣(陸・海軍大臣)は現役の武官(軍人)でなければならない制度のことである。
1900(明治33)年の第二次山縣有朋内閣において、当時力を付けて来た議会勢力の軍事費削減攻勢を恐れ、また議会(政党)が根っから大嫌いな山縣によって、軍部大臣とも大臣は「現役」陸軍(海軍)大中将に限るとする陸海軍省官制勅令(法律では無く、かつ勅令と言っても、陸海軍省官制の定員表の備考に記されたのみであった)が公布された。この時に大臣、次官とも現役中少将に制限された。この時点で軍部大臣現役武官制の基礎が出来た。この制度が設けられた理由は、現役でなければ現在の軍部の動向に通じておらず、職務が全うできないというのが表面上の理由であった。しかし、実際はこういう規定をつくれば、陸軍や海軍が「大臣を出さない」と言ったら最後、内閣はつくれないようになる。こうして、政党政治家が、軍に頭があがらないようにしたのである。また、軍部大臣になりたいと思っている軍人にとっても、人事権を握っている陸海軍省を無視することが出来なかった。すなわち、「予備役に入れる」と言われれば軍部大臣になれなかったのである。後年の話になるが、陸軍予備役大将宇垣一成が内閣組閣の大命降下を受けたが、陸軍省から陸軍大臣の推薦を拒否され、電話でかつての部下の小磯国昭朝鮮軍司令官に陸軍大臣就任の依頼をしたが、陸軍の推薦が無いなら、仮に自分が受けたとしても、朝鮮海峡を渡っている間に、電報一本で予備役に編入され駄目になると答え、結局宇垣内閣は成立しなかった(「宇垣内閣流産」と言われた)一件は好例である


 この軍部にとっての「伝家の宝刀」はのちに1912(大正元)年、西園寺内閣のとき、本当に切られることになった。
 第二次西園寺公望内閣の上原勇作陸軍大臣の2個師団増設問題において、極度に悪化した国家財政建て直しを理由に西園寺首相が上原大臣の要求を渋った結果、上原大臣が単独で天皇に辞表を提出し陸軍大臣職を辞した。陸軍はこの軍部大臣現役武官制を利用(悪用)して後任の大臣を出さず(「陸軍のストライキ」と言われた)、第二次西園寺内閣を瓦解に追い込んだ。この事件以降、さすがに「そんなやり方はひどい」と思った人たちは多く、各界から護憲運動がおこり、軍部大臣現役武官制が日本の政治において問題とされるようになった。
 その後、1913(大正2)年第一次山本権兵衛内閣は、山本首相と木越安綱陸軍大臣の英断で、軍部の強い総反発を押し切って(自ら軍を追われる事を承知の上で)「現役」の2文字が外された。実際の運用では予備役・後備役・退役将官などから軍部大臣になった例はなく、一旦現役に復帰してから大臣に就任していたが、この規定により任用資格が予備役・後備役・退役将官まで選択肢が広がり、以後組閣時の苦労が激減した。ちなみに英断を下した木越安綱陸軍大臣はその後、軍部の恨みを買って、いうまでもなく昇進の道を失い、まもなく休職し、予備役(事実上のクビ)になった。
 しかし、1936(昭和11)年広田弘毅内閣は、寺内寿一陸軍大臣の提案で、23年ぶりに「現役」の2文字が復活。口実として二・二六事件に関与したと思われた皇道派の首領、真崎甚三郎(当時予備役に編入)が軍部大臣に就任を阻止するためとされる。
 内閣は、明治憲法の第55条や第11条等により、元来、軍政コントロールの権限を持っていなかったが、軍部大臣現役武官制度の定着によって、内閣による文民統制は完全にとどめを刺され、喪失してしまった。つまり、現役の中大将でもある軍部大臣がノーといえば内閣一体の原則があるので、閣議決定は成立せず、内閣は崩壊してしまうのである。これによって、軍部大臣にだけ拒否権がある、軍部大臣が事実上の首相であるような結果を招いた。実際その後、宇垣一成の組閣流産や米内光政内閣の瓦解など、軍部による組閣介入が本格化し、日本の軍国主義の深刻化に拍車をかけることになる。

(関連項目)
軍部大臣現役武官制
濱口首相狙撃事件(1930年11月14日)
血盟団事件(1932年3月5日)
5・15事件(1932年5月15日)
ゴー・ストップ事件(1933(昭和8)年6月17日)
統帥権
統帥権干犯問題(1930年)

(参考 憲法11条の解釈)
 この憲法11条の解釈は「軍令部・参謀本部は帷幄の中(有事における軍事作戦上のこと)にあって陛下の大権に参画するもので、軍令部・参謀本部の意見は政府はただ参考として重要視すればいいのであって、何らの決定権はない」と美濃部達吉は西園寺の求めに応じ回答している。
 元軍人で平和主義者の海軍評論家水野広徳は、「憲法第11条は『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』とあるが、第15条は『天皇ハ爵位勲章‥‥ヲ授与ス』とあり、だからといって、恩賞権は独立して総理大臣が関与できないことはない。それと同じことだ」と論じている。

トップ>太平洋戦争勃発の原因