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ケッセルリンク
アルベルト・ケッセルリンク(最終階級:空軍元帥)
Generalfeldmarschall, Albert Kesselring
(1881-1960)
−イタリア防衛戦を戦い抜いた戦争巧者−
(20061104作成)


 アルベルト・ケッセルリンクは、教師の息子としてドイツのバイロイトに1881年8月8日に生まれる。1904年にドイツ軍に入隊し、メッツ駐屯の第2バイエルン 徒歩砲兵連隊(2. bayerisches Fus-Artillerie-Regiment)の士官候補生となる。
第一次世界大戦中、ケッセルリンクは様々なバイエルン砲兵司令官の副官をつとめ、第一次世界大戦停戦時には大尉まで昇進し、師団や軍団の参謀将校となった。また、ドイツ空軍に転任し、気球観測員として訓練を受けた。この職にあったとき、彼はヘルマン・ゲーリングと親密な友人関係を築いた。
 第一次世界大戦後も、彼は軍に残り、1933年10月1日には新しく創設されたドイツ空軍再建に加わり、10月には陸軍から空軍に籍を移し、エアハルト・ミルヒ航空大臣次官の下で働いた。同年12月空軍准将、1935年には中将に昇進。1936年6月、ミルヒの反対にもかかわらず、ゲーリングはケッセルリンクを空軍参謀総長に任命し、翌年1937年には空軍大将に昇進している。
 第二次世界大戦勃発時に、ケッセルリンクはベルリンに司令部のある第1航空艦隊司令官になり、ポーランド侵攻ではフェドーア・フォン・ボック大将指揮下の北軍集団の空からの援護に貢献する。9月30日、騎士十字勲章を受ける。翌年には、第2航空艦隊司令に転属し、ベルギー・オランダ・フランス侵攻時には空からの歩兵援護を行った。ダンケルクで英仏連合軍を取り逃がしたという非難にもかかわらず、1940年7月19日に空軍元帥に昇進する。
 彼はイギリス侵攻作戦「アシカ作戦」準備に関与し、上陸予定地点である南イギリス地方の猛爆を命令したが、イギリスでの空の戦いで、ドイツ空軍は手痛い損害を被った。
 バルバロッサ作戦によるソビエト侵攻では、ケッセルリンクは第2航空艦隊でフェドーア・フォン・ボック元帥指揮下中央軍集団の援護を行った。翌年、地中海方面の全陸空ドイツ軍の総司令官に転属となり、5月10日にはイギリスのマルタ島大規模空襲を命令している。しかし、7日後には、ヒトラーは全空軍戦力を東部戦線に集中させるという決定によって作戦を断念させざるを得なかった。
 ケッセルリンクは北アフリカに留まり、砂漠戦を指揮しているエルヴィン・ロンメル将軍の援護を行う。1942年11月10日、ベニト・ムッソリーニの下で、イタリア軍の代理司令官となるが、在職中、チュニジアとシチリア島失陥を防ぐことができなかった。
 1943年8月、ケッセルリンクはイタリア南部地区からの撤退を指揮していた。同年9月、サレルノの南に橋頭堡を確保した米英連合軍のマーク・クラーク将軍を足止めすることに成功する。彼は、ローマ周辺の全ての飛行場の安全を確保したため、連合軍は、空輸部隊による強襲計画を中止せざるを得なかった。1943年から1944年の冬にかけて、ケッセルリンクは連合軍のアンツィオ橋頭堡を押しとどめるのに成功した。
 1943年の冬、イタリア半島のローマ南部にあるグスタフ線として知られる防衛線に軍を撤退させる。この線は、6世紀に丘の上に建てられたベネディクト修道院があるモンテ・カッシーノを含んでいた。ドイツの15個師団によって防衛されているこの防衛線は、コンクリート壕、機関銃砲床、有刺鉄線、地雷原で強固に防衛されていた。
 1944年10月25日、ケッセルリンクは毎日の軍視察の途中に重傷を負う。3ヶ月間の入院を余儀なくされ、イタリアの指揮権はハインリヒ・フィーティングホフ将軍に移った。復帰後、1945年3月11日に、ケッセルリンクは西部方面軍の指揮権を引き継ぎ(〜4月22日)、同年5月3日には新設されたドイツ南部地区の最高指揮官である、南部方面軍司令官に就任。5月4日には南部方面軍は米英連合軍に降伏する。5月6日にはザールフェルデンで戦争捕虜となる。
 しかし、戦後、彼の指揮下の部隊によるパルチザン銃殺によって戦争犯罪人として審理され、1947年5月6日に死刑を宣告された。この判決はたくさんの論争と抗議を巻き起こした。ケッセルリンクの共謀の証拠が希薄であったからである。ケッセルリンクは銃殺したパルチザンの多くがドイツ軍の軍服で偽装されたものであり(いわゆる便衣兵は捕虜として取り扱われないので、銃殺は違法ではない)、また銃殺を実行したのがナチス親衛隊によって行われ、自分には命令の権限がなかったと主張した。ケッセルリンクはまた、ローマを無防備都市とし、考古学上きわめて重要なローマ、フィレンツェ、シエナ、オルヴィエートの都市を破壊から防ぐことに成功した。まもなく、1947年7月には判決が終身刑に減刑、1948年には禁固20年に減刑され、1952年には健康上の理由で釈放された。その翌年1953年と1955年には伝記をそれぞれ出版("Soldat bis zum letzten Tag" と"Gedanken zum Zweiten Weltkrieg")。1952年から1960年まで前線兵士の団体である「鉄兜団(Stahlhelm)」の会長を務める。1960年7月16日に旧西ドイツのBad Nauheimの療養所にて心筋梗塞で死去。遺体はBad Wiesseeに埋葬された。
 ケッセルリンクは、ナチス初期に任命された古参の空軍元帥の中で、唯一ヒトラーによって免職されなかった。

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