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ゲッベルス
ヨゼフ・ゲッベルス(宣伝大臣)
Joseph Goebbels
(1897-1945)
−ヒトラーに追随し続けた宣伝の名人−
(2001.5.12、2002.11.4加筆)

 1897年10月29日、ラインラント地方の中都市Rheydtの中産階級でも比較的裕福な会社員のカトリック家庭に生まれた。4歳に患った小児麻痺の影響で左足に障害が残り、第一次世界大戦での徴兵検査で失格となっている。彼はこの身体的なことにコンプレックスを抱いていたが、それを逆バネに学業に打ち込み、1921年にはハイデルベルク大学でロマン派文学の研究で文献学の哲学博士の学位を取得。このころは、彼の思想は反ブルジョアであったが、反ユダヤ主義は見られない。彼はゲーテ研究家のユダヤ人文学史教授フリードリヒ・グンドルフの指導を受けていたし、昔の婚約者がユダヤ人であったりしている。
 卒業後は、ジャーナリストを目指していたが失敗し、Colohneの銀行で9ヶ月間働いた。この挫折し鬱屈した状態の時にヒトラーと運命的な出会いをし、ナチス党に入党(1925年)。当初彼は、党内左派の実力者グレゴール・シュトラッサーの秘書をなどをしていた。彼は党内左派であったため、ヒトラーをブルジョワとして追放の提案さえしていたという。ヒトラーは彼を1926年4月、ゲッベルスをミュンヘン一揆の記念すべきビアホールに招いて説得し、以来ヒトラーの忠実な部下となっていく。まもなく弁舌の才能を買われ、ヒトラーの選挙活動を任されるにいたる。入党翌年の1926年にはベルリン管区指導者に抜擢され、当地区を本拠地としていたドイツ共産党と激しい闘争を繰り広げ、またDer Angriff(攻撃)という新聞を発行し、ユーモアとウィット、皮肉に飛んだパフォーマンスで民衆を魅了し、ナチスの党勢拡大に大きく寄与し、ヒトラーの政権獲得に大きく寄与する。
 1928年には国会議員、そして1929年にはナチス党のプロパガンダ全国責任者を務め、あの「Heil! Hitler(ヒトラー万歳)」を導入したのは彼であり、ヒトラー神話の創世に務め、当初12しかなかったナチス党の国会議席を、当時の大不況の追い風にのって230までに大躍進するのに貢献した。
 1933年のヒトラー内閣成立により、新設の宣伝省の大臣となり、最期までこの地位を保持した。就任早々の1933年5月には反ナチス、ユダヤ的とされた大量の書物を焼くという焚書を行って言論弾圧を行い、徹底した言論操作を行って、ユダヤ人排斥運動をあおり、ドイツ国民を戦争に追いやった。
 大戦末期には、人前に出て演説を行わなくなったヒトラーの代理として、徹底抗戦の演説を行ったり、空襲で被災した都市を視察し、救助隊の組織をして国民の賞賛を得た。スターリングラード大敗北後に行われた1943年2月18日の「総力戦」という言葉を使って国民の語りかけた演説は有名である。ベルリン攻防戦の直前には、総統地下壕に妻子をともなって入り、ヒトラーと運命をともにすることを決意した。ヒトラーの遺言によって首相に任命されたが、時すでに遅く、ヒトラー自決の翌日の1945年5月1日、ともにいた6人の子供を毒殺し、自らは妻マグダとともに拳銃で自殺し、ヒトラーの後を追った。彼は、自らの権力基盤が完全にヒトラーに依存していたことをよく知っていたので、ヒトラーに徹底した盲従を示し、常にほかの側近と競い、嫉妬で身を焦がしながらヒトラーに献身した。その結果、ヒトラーの後を追って「殉死」したことは当然の帰結であるとも言える。夫妻の死体は部下によってガソリン焼却されたが、ガソリンが足りなかったため不完全な黒こげ状態でソ連軍に発見された。
 彼は生前、ナチス党幹部の権力を利用して私腹を肥やすことには全くの無関心で、閣僚になって以後も借金に追われ続けた。私生活面ではマグダ夫人との間に5人の子供を設けつつ、1937年から38年にかけてチェコの映画俳優との浮気スキャンダルが起きて一時妻との離婚騒動が起こるが、ヒトラーの仲裁で事なきを得た。また、彼は4歳に患った小児麻痺の影響で左足に障害が残り、右側に上下動する歩き方をし、終生これをコンプレックスとして気にしていたという一面もあった。

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