ローマの議会



●クーリア集会(commitia curia)
 ロムルス時代からあるもっと古い民会で、貴族だけが参加する。共和政のごく初期には、執政官選出のような重要な機能を果たしていたが、徐々に全権力を市民集会に委譲し、一種の系譜学会に変貌していく。つまり、ここの市民がどの「氏族(ゲンス)」に所属するかを検討し決定するだけの会議になったのである。




●市民集会(commitia centria)
 軍事組織を単位とする民会である。王政時代のセルヴィウス・トゥリウス(第6代目王)の改革によって創設された。市民はその資産に応じて兵役につく義務があったが、その義務の代償として権利を有することとなる(すなわち古代都市国家の理念)のが根底にある。王政時代は、元老院と同様ただの諮問機関にすぎなかったが、共和政時代は重要政務官職の選挙など(候補者指名権は元老院)、重要な役割を有することとなった。
(開催要件)
執政官(執政官が首都に不在の時は法務官)、後には護民官にも召集権が認めれられる。
(構成要件)
兵役を終えたローマ市民(すなわち、ローマ市民権保持者)。
(審議事項)
法律を立案することはなく、政府提案に対して賛否を投票するだけで、採決は多数決だった。
(投票権)
一人一票ではなく、軍隊の最少構成である百人隊(ケントゥリア)につき一票であったため、所属階級ごとによって決まる(例えば、第一階級は193個百人隊であったため、193票)、つまり一種の財産に応じた制限選挙。
(権限)
開戦や終戦のような大事の決定権。すべての重要政務官職の選挙。
(カエサルの改革 前45年)
 この時代、有権者は100万人となっており、また各地に分散していたため、その実効性が怪しくなっていった。
 また、紀元前91年に、イタリア半島内に住む自由民全員にローマ市民権を与える法案によって、すでに有名無実化してしまっていた。
 政務官職の任命権がカエサルにうつり、ただの承認のみとなった。
(アウグストゥス帝の改革 前23年)
 政務官職の任命権が市民集会にもどる。
(ティベリウス帝の改革)
 政務官職の選挙権が元老院に移されたため、以後はほとんど開催されなかったらしい。




●平民集会(commitia tribus)
 聖山事件に代表される権力闘争の課程で、市民集会に参加できない無産階級(プロレタリアート)が権利獲得のために地区ごと(紀元前3世紀後半には、35地区(首都地区4、田園地区31))に結成させたもので、代弁者である護民官の選出を行う。
(開催要件)
当初は、護民官のみに召集権があったが、前287年以後、執政官にも召集権も有することとなる。
(構成要員)
当初は、無産階級市民(プロレタリアート)のみであったが、権力闘争が終了し、正式の民会として認められた後は(前287年)、貴族と平民で構成されるようになった。

(投票権)
各地区(トリブス)ごとに1票。
(権限)
○政務官選挙権
 当初は、護民官の選出のみであったが、次第に財務官、平民按察官、執政官と同様の権限を有する軍事護民官を選出するようになった。
○法案審議権
 上記市民集会と同様、法案作成権はなく、議長たる護民官提案の法案の賛否を投票するのみであった。
○優越権
 ホルテンシウス法以後は、元老院が否決しても、再び平民集会が承認すれば国法として認められるという優越権を有することとなった。


●元老院(senatus)
 senatusという言葉は、「老いた(セネクス)」から来たものであり、従って「長老たち」の集まりを示しており、王政時代、王への助言機関として生まれた。共和政時代、元老院での可決は理論上、法的拘束力はなかったが、もともとローマは、家父長制度が強く、その長たるもので構成されていた元老院は、自然と諸権限が集中することとなっていく(ポエニ戦争を経て)。
 例えば、ピュロス王の使節キネアスが報告した次の一言が、元老院の性格をよく表している。すなわち、「ローマには王はいないが、あの300の元老院議員の一人一人が王なのである。」と。
 ポエニ戦争終了時には、以下のような諸権力があった。 

1.外交権。属州や同盟国からの使節は、元老院の招かれるのが慣例となった。また、それらの地域の問題解決には、元老院議員からなる調査団が出向いて当たるのが慣例となっていった。

2.人事権。主要政務官職の選挙は市民集会で行われたが、立候補者を誰にするかは元老院が決めた。また、前執政官(プロコンスル)として統治する属州の任地の決定権も元老院が持っていた。

3.財政権。属州の税制を決めるのも元老院であるが、国庫の支払いを決めるのは元老院議員でもあった監査官(ケンソル)であった。

4.司法権。司法機関の長は元老院議員でもあった法務官であり、判決を下す陪審員は、元老院議員の独占であった。

5.軍事権。最高軍事司令官でもある執政官の選出権は市民集会にあったが、任地を決めるのは元老院。

(スッラの改革)
 財務官就任後、自動的に元老院議員になれた。定員を600人に増やす。
(カエサルの改革 前45年)
 定員を900人に増やし、属州の実力者(元ガリア族の酋長の場合もあった)や、周辺部族の長にも議席を与えた(結果として、元老院に嫌がられ、カエサル自身の暗殺の遠因の一つともなった)。
また、センプローニウス法の確認による「元老院最終勧告」の廃止を行った。
(アウグストゥス帝の改革 前28年)
 元老院に不評であった、カエサルの改革による議席増加を改め、スッラ改革当時の600人に定員を戻した(これは、元老院側への懐柔策でもあった)。
(元首政期)
 元老院は、その後名誉職の色彩をいっそう強めていったが、権威は依然としてあった。歴代皇帝が「プリンケプス(市民の第一人者=筆頭元老院議員)」と自称していた以上、元老院議員であることが絶対の要件であったし、元老院の承認なくしては皇帝になることができなかった。また、概して、歴代皇帝は元老院をある程度の敬意を持って接していた。
 しかし、セプティミウス・セヴェルス帝時代(193年〜211年)には、かなりの実質的な権限を失い、元老院議員でなかったマクリヌス帝の即位(217年)、ガリエヌス帝時代(253年〜268年)には軍司令官職からの追放、軍人皇帝時代における元老院選出の皇帝の無力さなどかなりの面でその無力さを露呈してしまった。
 さらに、ディオクレティアヌス帝以降は、皇帝選出には元老院の承認が必要されることはなくなった。また、帝国首都がローマからほかのところへ移り、(首都ローマの政治的比重の低下)皇帝自身がローマで政務を執ることがなくなったため、元老院はとみに力を失っていくことになる。しかし、ローマの元老院はその後、帝国の東西分裂(395年)、西帝国の滅亡(476年)を経て、おそらく5,6世紀頃までは存在し、皮肉にも蛮族支配者から敬意を持って遇されたようである(オドアケルなど)。
 なお、東帝国の元老院は、コンスタンティヌス大帝によって作られ、コンスタンティノープルにあったが、これは、全くの実権力はなく、ただ皇帝の賛助機関のような存在であったが、東帝国で細々と生きながらえ、マケドニア王朝時代には官職表にその名をとどめることとなる。


(参考)
●「元老院勧告」(セナートゥス・コンスルトゥム)
 法的には、元老院で討議の末に決めた「助言」であったので、拘束力はないが、家長制度を重んじたローマ社会においては、その家長の集団である元老院の勧告は無視できるわけはないので、自ずと拘束力を有することとなった。つまりこの勧告は、法的拘束力と言うよりは、権威的な拘束力を有することとなった。

●「元老院最終勧告」(セナートゥス・コンスルトゥム・ウルティムム)
 元老院が有するいわゆる伝家の宝刀で、国内の混乱を収拾するために発動された。これによって、個人を国賊として処断することができる。ただし、この勧告はあまりにも強大であったため、発動されることはあまりなかった。しかし、混乱した共和政末期においては、共和政初期及び中期に見られるような、独裁官を選出することを嫌ったため、この勧告が乱用されるようになった。
  前45年のカエサルの改革により、廃止されることとなる(センプローニウス法の確認による)。


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