ヒスパニア

(概要)
 ヒスパニアにローマの覇権が及ぶようになったのは、第二次ポエニ戦争の勝利によってであり、この時、カルタゴ領であるエブロ川以南を獲得した。その後、ローマは占領地を随時拡大し、最終的にはカンタブリア戦争(前26-24年)により北部ヒスパニアを支配下におき、ヒスパニア統一が完了する。
 ローマのヒスパニア統一以後は、軍人皇帝時代の一時期を除いて大規模な反乱はなく、安定した繁栄を謳歌する。この地の帝国支配は、375年に始まる民族大移動時代の409年に、ゲルマン民族のヴァンダル族、アラン族、スエビ族がピレネー山脈を越え、ヒスパニアを略奪した後、この地に定住し王国を建国していくことで事実上終焉していくのである。
 経済的には、農業よりも鉱業が盛んであり、とくに貴金属産出量は、ほかの属州の群を抜いていた。カルタゴ・ノヴァ付近の鉱山は、毎日25000ドラクマの収益をもたらしたとポリュビオスは伝えている。バエベロ鉱山の一つをとっても、毎日150キログラムの金塊を産出したという。また、ベティカ地方産の銀はローマが課した賠償金に必要な現金をカルタゴにもたらし、第一次ポエニ戦争敗戦によるカルタゴ財政の危機的状況を再建させることに成功するほどの量を産出したという。しかし、この豊富な鉱物産出も危機を迎えることになる。1世紀末から、シエラ・モレナ山脈やカルタゴ・ノヴァ地区の鉱山は窮地に立たされ、2世紀末から3世紀初頭にかけては、北部地域も同様な状況になり、イベリア半島全体では3世紀末には閉鎖されていたと考えられる。
 治安面では、外敵の侵入がなく、また属州民の反乱もほとんどなかったため平穏であった。常備軍としては、ローマの占領が間もなかった、北部ヒスパニアの都市レギオに駐留していた一個軍団のみであった。
 ほかに特記すべき事項としては、都市イタリカ出身で、初の属州民出身の皇帝トラヤヌスの即位である。

(属州・行政区分の変遷)
年代
属州名
前201年頃
(第2次ポエニ戦争終結)
属州近ヒスパニア
属州遠ヒスパニア
前20年頃
(アウグストゥス帝時代)
属州ヒスパーニア・タラコネンシス
属州ベティカ
属州ルジタニア
300年頃
(ディオクレティアヌス帝時代)
ヒスパニア管区
属州ヒスパーニア・タラコネンシス 属州ガッラエキア 属州カルタギニエンシス 属州ベティカ 属州ルジタニア



目次
1.ギリシア、フェニキア、カルタゴの進出
2.第二次ポエニ戦争
3.ケルトイベリア・ルシタニア戦争
4.セストリウスの反乱
5.ポンペイウスとカエサルの内乱
6.帝政期
7.帝国の内乱(68〜69年)
8.軍人皇帝時代(235年〜284年)
9.ディオクレティアヌス帝による属州再編
10.帝国支配の終焉
年表

1.ギリシア、フェニキア、カルタゴの進出
 この地には前10世紀のガリア人移動により、ガリア人が定住していたが、前8世紀には、ギリシア人(主に植民市マッシリア)及びフェニキア人が進出した。ギリシア人は地中海沿岸である東部にサグントゥムなどの植民市を建設、そこに在外商館(エンポリオン)を設置した。一方、フェニキア人は南部にそれぞれ植民市(ガデス(現ガディス)など)を建設して、内陸部の先住民との交易を行った。
 次に進出したのが、フェニキア人植民を起源としたカルタゴである。第一次ポエニ戦争の敗戦によって、シチリア島西部、コルシカ島、サルディニア島をローマに割譲したため、西地中海での制海権を失い、またローマに課せられていた賠償金のため、財政的危機に陥っていたカルタゴは、新たな活路を見いだすべく、ヒスパニアに目を付けたのである。この頃、フェニキアは、母市であるシドン、チュルスの衰退により、前4世紀にはヒスパニアの支配権を失っていたが、南部にはフェニキア人が植民した都市が存続していた。カルタゴはこれに乗じ、フェニキアに取って代わって、ヒスパニアの支配権を獲得したのである。カルタゴからヒスパニア経営を託されたバルガス一族は、順次ヒスパニア支配を拡大させ、第二次ポエニ戦争勃発時までには、その支配地はエブロ川以南にまで達していた。バルガス一族のヒスパニア経営の中核は鉱山開発であった。このヒスパニアは、貴金属を豊富に産出量することはすでに知られていた。カルタゴ・ノヴァ付近の鉱山は、毎日25000ドラクマの収益をもたらしたとポリュビオスは伝えている。バエベロ鉱山の一つをとっても、毎日150キログラムの金塊を産出したという。また、ベティカ地方産の銀はローマが課した賠償金に必要な現金をカルタゴにもたらし、第一次ポエニ戦争敗戦によるカルタゴ財政の危機的状況を再建させることに成功した。

2.第二次ポエニ戦争
 前218年、ハンニバルは、ヒスパニアを弟ハスドゥルバルたちに託し、ローマへの進軍を開始した。彼は有名なアルプス越えを敢行して、イタリアに侵入した。これに対し、ローマ側は、ハンニバルが、彼の後背地であるヒスパニアからの支援を受けることを妨害するために、ヒスパニアに2個軍団を派遣させ、一時的にはカルタゴに対して優位に戦局を進めたものの、前211年に相次いでカルタゴ軍に撃破され、司令官であるプブリウス・コルネリウス・スキピオ、グネウス・コルネリウス・スキピオ(大スキピオの父と叔父)が相次いで戦死し、スペイン派遣軍は壊滅的状況に陥った。
 前209年、プブリウス・コルネリウス・スキピオ(後の大スキピオ)らが派遣され、直ちに、カルタゴ・ノヴァを占領した。前208年、ハスドゥルバルはローマの将軍プブリウス・コルネリウス・スキピオ(後の大スキピオ)にベクラの戦いで破れた。その後、ハスドゥルバルは兄ハンニバル救援のため、イタリアを目指し、ヒスパニアを弟たちに任せた。しかし、合流前にメタウロの会戦でガイウス・クラウディス・ネロ率いるローマ軍に破れ、軍は全滅し、ハスドゥルバルは戦死する(前207年)。
 その後、前206年にイリパの会戦でハスドゥルバルの弟マゴーネは破れ、最終的に、ヒスパニアはローマの手中に落ちたのである。
 第二次ポエニ戦争の勝利により、ローマはヒスパニアを獲得し、直ちに近ヒスパニア、遠ヒスパニアの二属州を設置した。

3.ケルトイベリア・ルシタニア戦争
 それ以後のローマによるヒスパニア支配は最初から順調であったわけではなかった。ローマ人は新たに獲得した占領地を利益最優先で開発し、また、ローマ人の総督による利益の搾取及び使い込みが後を絶たなかったため、先住民の不満は高まり、まもなく、先住民の反抗をきっかけに新たな戦争が勃発、泥沼化の様相を呈するのである。これが、いわゆるケルトイベリア・ルシタニア戦争(前154年-133年)である。
 前153年、内乱を鎮圧するためにローマから派遣されていた執政官クイントゥス・フルウィウス・ノビリオル率いるローマ軍が反乱軍の拠点であったヌマンティア(現ソリア)へ攻め入ったが、進軍中、山の奥深くで敵の待ち伏せにあい、6000の兵を失ってしまう。指揮官のノビリオルは辛うじて命を取り留め、残兵を率いヌマンティア近くのグラン・アタラヤ山の要塞化された駐屯地に立てこもり、酷寒の冬を過ごした。紀元前153年8月23日はその後、ローマ本国でも国家的な厄日とされたのである。
 前151年、ルキウス・リキニウス・ルクルス将軍は、表向きの中立を保っていたワッケイ族を急襲し、首都コーカを攻囲、ワッケイ族は、市民の命の保証と引き替えに首都を明け渡したが、ルクルス将軍は、市民を皆殺しにしてしまう。またセヴェルス・スルピキウス・ガルバ将軍も同様にルシタニア族に同様の措置を取り、新しい土地を与えるという条件と引き替えに彼らを降伏させた。
 しかし、このような虐殺は思わぬ結果を招いてしまう。これらの虐殺を生き延びた人の中に、ウィリアトゥスという人物がいた。彼はルシタニア地方で羊飼いをしていたため、この地方の山の地形を知り尽くした。彼は同胞を結集して、ローマに対しゲリラ戦を展開、数回にわたってローマ軍をうち破ったのである。
 前147年、彼の軍が、法務官ウェティリウス率いるローマ軍を撃破し、ウェティリウスを投獄の上に処刑する。これに対しローマは兵力増強を強いられたが、戦局は一進一退を繰り返したが、前139年頃までにはローマが決定的な優位に立つことができた。
 ウィリアトゥスはローマとの講和を望んだが、内部分裂が起こり、ローマの将軍クィントゥス・セルウィリウス・カエピオと手を結んだ一派によってウィリアトゥスは捕らえられ、前139年に背信行為の罪で処刑される。彼の後継者となったタウタムスは、カエピオから一方的に押しつけられた不利な和平条件をのまざるを得ず、ウィリアトゥス残党は新総督イウミウス・ブルトゥス・カッライクスによるウァレンティア(現バレンシア)の新しいローマ植民市に強制的に駐屯させられた。
 ウィリアトゥスの反乱が鎮圧したのもつかの間、まもなく、新たな戦争が勃発した。セヘダに先住民の大都市を建設しようという計画に、ローマ当局が反対したのがきっかけであった。反乱の中心はまたもやヌマンティアであった。
 前137年には、4000人に上るヌマンティアの若者が、ガイウス・ホスティリウス・マンキヌスの軍に襲いかかり、次々にローマ兵の右腕を切り落としたという。この行為は、美しく身分の高い女性と結婚できるという彼らにとっての通過儀礼であったという。マンキヌスはきわめて不利な条件の和平条約への署名を余儀なくされたが、ローマ元老院はこの批准を拒否、裸のマンキヌスを城門まで連れていき、ヌマンティア側に引き渡した。
 戦況は膠着状態となったが、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)の登場によって形成は一気にローマ側に傾く。かれは何度も敵を撃破し、ヌマンティアを攻囲した。ローマ軍に敵対するものは徹底的に罰せられた。例えば、籠城者に味方しようとしただけで、400人にも及ぶルティアの若者の腕を切り落としたという。小スキピオは、ヌマンティア周辺に城壁を築いて、ヌマンティアを完全に封鎖した。過酷な攻囲戦は8ヶ月にも及び、飢えと乾きに苦しんだ籠城者の中には人肉を食らうものまで出たという。そして、前133年、ヌマンティアはローマに降伏し、わずかな生存者は奴隷として売り飛ばされ、ヌマンティアは徹底的に破壊された。

4.セストリウスの反乱
 マリウス配下の将軍であったセストリウスは、マリウスがスッラにやぶれた後、弾圧を避けるためヒスパニアに逃れて潜伏していたが、スッラの死後の前77年、反乱を起こす。この反乱は、自由を取り戻すための先住民の反乱ではなく、先住民の支持を受けた現地政府がローマ本国の反対派に対して起こした反乱であったのが特徴であった。これに対し、ローマは、ポンペイウスを派遣して鎮圧させようとした。この反乱の影響は、ヒスパニア全土に波及し、セストリウスは前77年にはオスカ(現ウェスカ)を根拠地と定めた。前72年にはセストリウスは部下で補佐役のペルペルナに暗殺され、反乱は収束する。しかし、この内乱の間に、たくさんの都市が征服され、破壊された。この反乱の最終段階である、エブロ川上流のカラグッリス(現カラオラ)での攻囲戦は陰惨を極め、立てこもった兵士が降伏を拒否、女子供の人肉を食べて飢えをしのいだという。

5.ポンペイウスとカエサルの内乱
 ヒスパニアは、ポンペイウスを支持する勢力が強かったため、内乱に際しては、ポンペイウス派の拠点の一つとなった。前46年に、アフリカでカエサルに破れたポンペイウスの遺児が、カエサルに対し最後の反撃にでるべくヒスパニアに渡ったが、前45年3月17日、ムンダの戦いに敗れ、ここに内乱が終結した。
 
6.帝政期
 帝政初期になっても、ローマに対する先住民の反乱は相次いだ(前38年に起こった、ピレネー山脈にするケルト人の反乱、前29年のカンタブリア人、アストゥリアス人、ワッケイ人の反乱)が、すでにローマのヒスパニア征服は最終段階に移行していた。
 前26年、皇帝アウグストゥスは、いまだにローマの支配下になかった北部ヒスパニア征服を敢行し、前24年までにはこの地の原住民を征服し、ヒスパニア全土がローマの支配下におかれることになる(カンタブリア戦争(前26-24年))。
 その後も反乱は相次いだが、前19年にはようやくヒスパニア全土の完全征服を達成し、400年にもわたる平和な時代が到来する。ヒスパニアは、アウグストゥスの属州再編により、南部のバエティカ(元老院管轄属州)、西部のルシタニア(皇帝管轄属州)、東部と北部のタッラコネンシス(皇帝管轄属州)という3つの属州に分割された。この頃、長い内乱によって破壊されたたくさんの都市が復興していき、その繁栄ぶりはほかの西部属州を圧倒したという。その繁栄の象徴として特記すべき事項としては、イタリカ出身の皇帝トラヤヌスの登場であろう。彼は属州民として初めて皇帝に即位した人物であった。

7.帝国の内乱(68〜69年)
 68年のネロ帝の死後、帝位継承を巡って帝国は混乱した。この時、属州ヒスパーニア・タラコネンシスの属州総督であったセルウィウス・スルピキウス・ガルバは、68年4月3日、カルタゴ・ノヴァで皇帝宣言を行った。そしてすぐに、属州ルジタニア、属州ベティカの属州総督から支持を得、まもなくエジプト。アフリカ、マウレタニアの総督からも支持を取り付けた。68年6月8日に元老院から正式に皇帝として承認された後、ヒスパニアを出発し、10月ローマに到着した。しかし即位早々、ネロ帝殺害の真犯人であった親衛隊への下賜金支給を拒否したため、親衛隊の支持を失い、またガルバが任命した役人の腐敗ぶりなどで市民の支持を失った。彼の破滅は、翌年69年1月、ライン川方面駐留のローマ軍団が、新年におこなう恒例の皇帝宣誓を拒否し、皇帝の彫像を引き倒し、司令官アウルス・ウィテリウス(後の皇帝)を新皇帝と宣言したのである。これに対しガルバは、後継者の必要性を痛感したが、彼の二人の息子は即位前にすでに死んでいたので、名家の出身であるピソを養子とし、ガルバの後継者とした。しかし彼はこの時も歴代皇帝が行っていた親衛隊への下賜金支給を行わなかったため、親衛隊の支持を取り付けなかった。また、元老院や市民の反応も、よく言って「無関心」と言った状態であった。さらに、この養子縁組は思わぬ結果をもたらしたのである。ガルバの皇帝宣言時の属州ルシタニア属州総督で、いち早くガルバを支持していたマルクス・サルヴィウス・オトは、当然自分がガルバ帝の後継者になるだろうという期待を持っていたため、この養子縁組はまさに「青天の霹靂」であった。そして彼は皇帝殺害を決意した。
 翌年69年1月15日、ガルバ帝がパラティウム丘のアポロン神殿で礼拝を行っている間に、オトはこっそり抜け出し、目隠しした臥輿に乗って、親衛隊の兵舎に入り、皇帝即位の支持を取り付け、自分を皇帝と宣誓させた。これに対し、ガルバ帝は、話し合いにより事態を解決しようとし、臥輿に乗って公共広場(フォルム)に向かった。しかしオトの騎兵によって襲撃され、臥輿から転げ落ちたところをさされて死んだ。プルタルコスによれば、彼の最後の言葉は、「好きにするがいい、これがローマのためよりよいことなら」だったという。一方、養子のピソは公共広場の中でもっとも神聖なウェスタ神殿に逃げ込んだが、引き出されて殺された。二人の死体は首を切り落とされて、棒の先に突き刺されて町中を引き回され、人々にさらされた。だが、ガルバ帝の首は、忠実な執事であったアルギウスが奪還に成功し、アウレリア街道沿いの皇帝所有の庭園に胴体とともに埋葬されたという。

8.軍人皇帝時代(235年〜284年)
 この時代、ローマ帝国は内部では皇帝位を巡る争い、外からは辺境からの侵略(ゲルマン人、ペルシア人など)に悩まされ、特にガッリエヌス帝時代(在位253〜268年)はまさに帝国の存亡の危機といえる状態であり、ヒスパニアでは、260年にフランク族が属州ヒスパーニア・タラコネンシスの首都タッラコを略奪した(タッラコは二度と完全に復興しなかったという)。多くの属州民は、遠く離れた無力なローマの中央政府をあてにせず、地元の指導者が自分の属州を守ってくれることを期待するようになり、独自の帝国を建国し、ローマ帝国から分離した。ヒスパニア諸属州も例外ではなく、261年までにガリアに成立したガリア帝国に参加し、ローマの支配から分離した。しかし、ガリア帝国皇帝ポストゥムス死後に脱落し(269年)、ローマ帝国に再び併合されたのである。

9.ディオクレティアヌス帝による属州再編
 軍人皇帝時代の混乱を収拾したディオクレティアヌス帝は、属州再編成を行い、従来のヒスパニア3属州とアフリカの属州マウレタニア・ティンジターナを6属州(ガッラエキア、タッラコネンシス、カルタギニエンシス、ルシタニア、バエティカ及びマウレタニア・ティンジターナ)に再編し、ヒスパニア管区下に置いた。

10.帝国支配の終焉
 375年の民族大移動に伴う混乱は、このヒスパニアをも襲った。406年12月に、ライン川を越え、ガリアを侵略したゲルマン民族のヴァンダル族、アラン族、スエビ族が409年にピレネー山脈を越え、ヒスパニアを略奪した後、この地に定住し王国を建国していく。また、410年にローマを略奪した西ゴート族が415年にヒスパニアに侵入した。
 すでにこの時には、ヒスパニアは西ローマ帝国の統制下から離れ、事実上、帝国支配が終焉していくのである。


年表
年代
出来事
前10世紀 ケルト人のイベリア半島移住開始。
前8世紀 フェニキア人、ガデス(現ガディス)建設。
前7世紀 ギリシア人、在外商館(エンポリオン)を沿岸部に建設。
前6世紀 カルタゴ、イベリア半島沿岸部に侵攻。
前227年 カルタゴ、カルタゴ・ノヴァ(現カルタヘーナ)建設。
前218年-201年 第2次ポエニ戦争。
前218年 カルタゴのヒスパニア総督ハンニバル、ローマへの進軍を開始。
前211年 カルタゴに派遣されていたローマ軍、次いでカルタゴ軍に撃破され、司令官であるプブリウス・コルネリウス・スキピオ、グネウス・コルネリウス・スキピオ(大スキピオの父と叔父)が相次いで戦死し、スペイン派遣軍は壊滅的状況に陥いる。
前209年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ(後の大スキピオ)が率いるローマ軍、カルタゴ・ノヴァ占領。
前208年 ベクラの戦い。プブリウス・コルネリウス・スキピオが率いるローマ軍、ハスドゥルバル率いるカルタゴ軍を破る。
前207年 メタウロの会戦。イタリアで戦っている兄ハンニバル救援のため、合流すべくイタリアを目指していたハスドゥルバルは、合流前にでガイウス・クラウディス・ネロ率いるローマ軍に破れ、軍は全滅し、ハスドゥルバルは戦死する。
前206年 イリパの会戦。カルタゴのヒスパニア支配の事実上の終焉。
前154年−前133年 イベリア半島先住民、ローマへの抵抗を試みる(ケルトイベリア・ルシタニア戦争)。
前133年 小スキピオ、ヌマンティアを徹底的に破壊する。
前132年 ローマ、バレアス諸島を征服、属州近ヒスパニアへ併合。
前77年-前72年 マリウス派の将軍セストリウスの反乱。
前45年 ムンダの会戦。ポンペイウスの遺児が率いる軍、カエサルに破れる。内乱の終結。
前38年 ピレネー山脈に住むケルト人の反乱。
前29年 カンタブリア人、アストゥリアス人、ワッケイ人の反乱。
前26年-前24年 カンタブリア戦争。ローマのヒスパニア統一。
68年 属州タラコネンシス総督セルウィウス・スルピキウス・ガルバ、皇帝に即位。
98年 初の属州民出身の皇帝トラヤヌスの即位(〜117年)。
260年 ゲルマン民族のフランク族が属州ヒスパーニア・タラコネンシスの首都タッラコを略奪。
261-269年 ガリアに成立したガリア帝国に参加し、ローマの支配から分離。
409年 ゲルマン民族のヴァンダル族、アラン族、スエビ族がピレネー山脈を越え、ヒスパニアを略奪。その後、この地に定住し王国を建国していく。
415年 西ゴート族のヒスパニア侵入。この頃までに、ローマのヒスパニア統治が事実上終わる。

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