ブリタニア

(概要)
 地理的に、ドーバー海峡に隔てられていたため、またローマから離れた辺境の地であったこともあって、2世紀末の帝位継承を巡る争いと4世紀に繰り返し帝位簒奪者を生み出したことを除けばローマ帝国の政治生活にほとんど影響を与えなかった。
 経済面では、特にめぼしいものはなく、錫や鉛のような金属や少量の金を産出し、これを輸出していた。
 治安面においては、征服できなかった北部のカレドニアに住むガリア人やウェールズの部族が絶えず不安定な状態をもたらしたので、大量の軍団の駐留を必要とした(五賢帝時代には3個軍団が駐留していた)。このためのコストが膨大となったが、ブリタニアの経済力だけではとうてい賄いきれるはずもなく、決して恵まれた属州とは言えなかった。

(属州・行政区分の変遷)
年代
属州名
43年頃
(クラウディウス帝時代)
属州ブリタニア
197年頃
(セプティミウス・セヴェルス帝時代)
属州上ブリタニア
(ブリタニア・スペリオル)
属州下プリタニア
(ブリタニア・インフェリオル)
300年頃
(ディオクレティアヌス帝時代)
ブリタニア管区
属州ブリタニアT 属州マクシマ・カエサリエンシス 属州フラウィア・カエサリエンシス 属州ブリタニアU



目次
1.前史
2.ブリタニア遠征及び属州化
3.ボウディッカ女王の反乱(61年)
4.ブリガンテス族征服(69-71年)
5.アグリコラによるスコットランド征服(79〜84年)
6.属州領土の拡大とその限界
7.帝国の内乱(193年)
8.軍人皇帝時代(235年〜284年)
9.ディオクレティアヌス帝以後の後期帝国時代
10.帝国の統治の終焉
年表
 

1.前史
 最初のブリタニア遠征を実行したのはユリウス・カエサルであった(前55年と前54年)。これはブリタニア征服が目的ではなく、当時行われていたガリア征服で反ローマのガリア人の逃げ込み先となることを恐れたのと、北東ガリアにすむガリア人と、ブリタニアにすむガリア系ブリタニア人が同盟を結ぶのを事前に阻止することを目的としたものであった。このときは、領土の占領は行わず、いくつかの部族と同盟を結んだだけであった。
 この後、アウグストゥス帝時代、ティベリウス帝時代を通じて、ブリタニア部族とローマ人とはなにも問題は発生せず、交易も盛んに行われていた。
 カリグラ帝時代になって、ブリタニア遠征が検討されるが(気まぐれからであったといわれている)、現実しないまま終わっている(原因として、ローマ財政の破綻などがある)。

2.ブリタニア遠征及び属州化
 本格的なブリタニア遠征を行ったのは、クラウディウス帝であったが、これは、軍事的あるいは経済的な根拠によって行われたものではなかった。41年1月に暗殺されたカリグラ帝の跡を継いだクラウディウス帝は治世当初から不安定で、なんとしても軍事的な成功をおさめて自分の威信を支えなければならないという政治的な思惑があったためであったという。43年、アウルス・プラウティウス指揮下の侵略軍(4個軍団)、が、ルトゥピアエ(現リッチバラ)に上陸し、メドウェイ川とテムズ川を横断して進軍し、カトゥウェラウニ王国の首都であるカムロドゥヌム(現コルチェスター)を陥落させた。その後、征服地に属州ブリタニアを設置し、初代総督にアウルス・プラウティウスが就任した。(43年)。その後、数年の間、ローマ軍は着実に勢力を広げ、ブリタニア南部の残りに地方を支配下におき、ウェールズにも侵攻した。47年にはローマとの同盟を結んでいたイケニ族の反乱を鎮定し、51年には原住民族の首長カタラクスを破って捕虜とした。

3.ボウディッカ女王の反乱(61年)
 ことの発端は、ローマと友好関係にあったイケニ族の長の未亡人であったボウディッカの二人の娘がローマ人によって強姦されたことであったが、以前からローマ人が必要以上に支配者として振る舞ったこと、ローマ人の金融業者の高利貸しへの不満などがその真因であった。
 決起したブリタニア人は、カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)に入植していたローマの退役兵を襲い、さらに鎮圧のために出動したローマ一個軍団(ix Hispania)を壊滅させる。その後、ローマと友好関係にあった自治都市ウェルラミウムを襲い、女子供に至るまで惨殺した(殺された人の総数は7万人を数えたという)。時の総督スヴェトニウスは、残った2個軍団(xivとxx Valeria Victrix)でブリタニア人に決戦を仕掛け(ウィロコニウム(現在のシュロップシァイアのロクスター)とウェルラミウムの中間であった)、これに勝利する。
敗戦の報を聞いたボウディッカは毒を仰いで生涯を終えた。この戦いだけで八万人以上の敵兵の死体が戦場を埋め尽くした。ローマ側の戦傷者はわずか800人であったという。

4.ブリガンテス族征服(69-71年)
 ローマは当初、ブリタニア中部にあったブリガンテス族と同盟を結んで、中部地方を支配しようとしたが、69年に、反ローマの派閥が実権を握るや、ローマは軍事介入をしてこの地方を直接支配しようとした。最終的には、71年、ペティリウス・ケリアス率いるローマ軍が、ブリガンテス族を完全征服したのである。

5.アグリコラによるスコットランド征服(79〜84年)
 79年にブリタニア総督として赴任したアグリコラがスコットランド征服を行い、83年にはグラウピウス山で先住民族を撃破して大勝利をおさめた。しかし、このときドナウ川方面で紛争が起き、スコットランド征服を断念せざるをえなかった。アグリコラの征服地は次々に放棄され、1世紀の終わりまでに、北辺国境はタイン川とソルウェー湾を結ぶ地峡にまで後退した。

6.属州領土の拡大とその限界
 ハドリアヌス帝時代、帝自らブリタニアを訪れ、「ハドリアヌス帝の長城」の建設を指揮し、ここを国境と定めた。さらに次のアントニヌス・ピウス帝時代である142年にブリタニア総督ロリウス・ウルビクスが現地での戦いに勝利し(この功績によりウルビクスは「大将軍」の称号を与えられた。)、その領土を広げ、スコットランド南部を占領し、フォース川とクライド川の地峡を横切って新たなる長城(アントニヌス帝の長城)を建設した。それは「ハドリアヌス帝の長城」より約半分の40マイルの広さで、前者が石造りであったのに対し、後者の方は土塁であり経済的であった。しかし、この属州北辺国境である「アントニヌス帝の長城」はアントニヌス・ピウス帝治世末期にはすでに放棄され、さらに「ハドリアヌス帝の長城」の南に国境は後退することとなる。

7.帝国の内乱(193年) 
 193年4月、護衛隊によるローマ皇帝ペルティナクス暗殺に端を発する皇帝乱立の混乱の中、総督クロディウス・アルビヌスが皇帝の名乗りを上げた。ドナウ川駐留軍団によって皇帝に擁立され、ローマを制圧し、元老院から皇帝と認められた上パンノニア属州総督セプティミウス・セウェルスは、当初、東方で同じく皇帝の名乗りを上げたシリア総督ペスケンニウス・ニゲルを討伐するにあたり、後方の憂いをたつため、アルビヌスに「カエサル」の称号を与え、味方につける。しかし、ペスケンニウス・ニゲル敗死後、二人は戦争状態となり、ついには、197年2月19日、リヨン郊外で決戦が行われた。しばらくの間混戦状態となり、勝敗が定まらなかった。そのとき、セヴェルス帝が落馬したが、危機一髪のところで皇帝の外套をむしり取って身分を隠したために難を逃れた。さらに運良くそこへ騎兵隊が駆けつけ、形勢が一気に逆転した。アルビヌスは破れ、リヨンへと逃れたが、脱出できずに自害して果てた。勝利者となったセヴェルス帝はアルビヌスの遺体を裸にして地面に放り出し、その上に馬を駆けさせ踏みにじらせるという残忍な仕打ちを与えた。その後、その遺体の首は切り落とされて、ローマに運ばれ、体のほうは、アルビヌスの妻や息子たちの体とともにローヌ川に投げ込まれたという。その後、ブリタニアは二つの属州(上ブリタニア・下ブリタニア)に分割された(197年)。

8.軍人皇帝時代(235年〜284年)
 この時代、ローマ帝国は内部では皇帝位を巡る争い、外からは辺境からの侵略(ゲルマン人、ペルシア人など)に悩まされ、特にガッリエヌス帝時代(在位253〜268年)はまさに帝国の存亡の危機といえる状態であった。多くの属州民は、遠く離れた無力なローマの中央政府をあてにせず、地元の指導者が自分の属州を守ってくれることを期待するようになり、独自の帝国を建国し、ローマ帝国から分離した。ブリタニアも例外ではなく、261年までにガリアに成立したガリア帝国に参加し、ローマの支配から分離した。しかし、275年にローマ皇帝アウレリウス(在位270〜275年)によってガリア帝国が滅ぼされると、ローマ帝国に再び併合されたのである。

9.ディオクレティアヌス帝以後の後期帝国時代
 286年末、北海艦隊司令官カラウシウスがブリタニアを掌握し、皇帝宣言を行った。これに対し、西部正帝マクシミアヌス帝は289年に討伐軍を差し向けたが撃退される。敵が強力な海軍力を有していたことが理由であるが、もともとゲルマン人の襲撃に対する防御を目的として作られた「サクソン海岸の砦」と呼ばれる要塞がブリテン島の南岸及び東岸にあり、これがローマ軍の侵攻にも効果的であったのも理由であった。293年の夏、西部副帝であったコンスタンティウス(コンスタンティヌス大帝の父)は、ゲゾリアクム(現ブローニュ)の主要海軍基地を含めた海岸の南岸沿いの領土に侵攻し、奪還に成功する。カラウシウスはかろうじて逃亡するが、この年のうちに財務官アレクトゥスによって殺された。しかし、コンスタンティウスはすぐに侵攻はせず、3年をかけ主に海軍力の増強を中心とした準備を整え、297年に大規模な侵攻を開始した。囮としてコンスタンティウスが艦隊を率いてケント沖を巡航して敵を欺いている間に、親衛隊長が率いる別働隊をウィンチェスター近郊に上陸させ、一気にロンドンに侵攻したのである。敵の陽動作戦にだまされたアレクトゥスは、別働隊を討つべく急ぎ戻ったものの、結局は破れ、ファーナム近郊で殺された。これによって、10年間の離反の後、ブリタニアはローマ帝国の手に戻ったのである。
 ディオクレティアヌス帝の属州再編成によって、ブリタニアは4つの小属州に分割され、12管区の一つである「ブリタニア」の管轄下に置かれた。

10.帝国の統治の終焉
 375年の民族大移動に伴う混乱の余波は、このブリタニアにも例外なく襲い、現在のデンマークにいたサクソン人の侵入が本格化した。この侵入に抗しきれなくなったローマは、410年、西ローマ皇帝ホノリウスの名で、ブリタニア人に独自に防衛するよう通達を出すとともに、駐留軍団を引き上げさせた。ここに、約350年にわたったローマのブリタニア支配が終焉することとなったのである。



年表
前55年〜54年 ユリウス・カエサルによるブリタニア遠征
43年 クラウディウス帝による遠征。占領地に属州設置。
61年 ボウディッカ女王の反乱
69〜71年 ブリガンテス族征服
77〜84年 アグリコラによるスコットランド征服
84年 モンス・グラウピウスの戦い
120年代 属州北辺にハドリアヌスの長城が築かれる。
142年 フォース川とクライド川地峡間にアントニヌス帝の長城建設。国境の北進。
193年 総督クロディウス・アルビヌス、駐留軍団により皇帝に推される。
197年2月19日 総督クロディウス・アルビヌス、リヨン郊外で決戦でセプティミウス・セヴェルス帝軍に破れ、殺される。
197年 2属州に分割される。
261〜265年 ガリア帝国に参加し、ローマ支配から一時的に離脱。
286〜297年 北海艦隊司令官カラウシウスの反乱により、ローマ支配から一時的に離脱。
410年 ローマのブリタニア支配の終焉。

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