ローマ市のその後

(2008.6.8作成)
(2008.11.27加筆修正)

 五賢帝時代(96年〜180年)の最盛期には人口が100万人といわれた首都ローマは、330年にコンスタンティヌス帝(在位306年〜340年)が首都をコンスタンティノープルに移すと、ローマは政治的重要性を失ってしまった。
 395年のローマ帝国の東西分裂によって、ローマは西ローマ帝国に属したが、首都はラヴェンナに置かれ、また410年の西ゴート人の襲撃以来、ローマは古代末期から中世初期にかけて外部の略奪や破壊を受けて衰微し、その西ローマ帝国も476年に滅亡した。その後は西ローマを滅ぼしたオドアケル、次いで東ゴート王国(493年〜552年)の支配下に入った。しかし、蛮族による平和「パックス・バルバリカ」や征服者である蛮族が、被征服者ローマ人を統治機構に欠かせないものとして重用したり、ローマ元老院を存続させたりなどの優遇政策によって一時的な平和が訪れ、この頃のローマの人口は15万人程度であったといわれる。しかし、ローマ帝国の旧領土を回復するために行われた東ローマ帝国のイタリア遠征(ゴート戦役)(535年〜545年)によって、ローマのみならずイタリア全土が戦乱に巻き込まれた。国土の荒廃のみならず東ローマ帝国による統治も過酷な重税などの圧政によってローマの人口は減少の一途をたどった。
 さらにこの頃から、生活に欠かせない水供給源であったローマ水道は、侵略者による破壊や修復不足による故障により、水の供給が欠乏していき、結果として高台の放棄とテヴェレ河両岸の低地への人口集中を起こした。このような相次ぐ戦乱、生活インフラの機能不全および政治的・経済的重要性の喪失により人口は減少し続け、一説ではゴート戦役後には「500人」しか残っておらず、10〜14世紀でも3万〜3万5,000人の水準にとどまったといわれる 。
 6世紀以降は東ゴート王国を滅ぼした東ローマ帝国の支配を受ける。608年に建てられたフォロ・ロマーノにあるフォカス帝(在位:602年〜610年)の記念柱は、ローマ市に建てられたローマ帝国による建造物としては最後のものである。ちなみにこの柱は、他の建造物からの転用したもの(1〜2世紀のもの)であり、柱の上には皇帝の像が置かれていたという。
 その後、東ローマ帝国の衰退に乗じて、ランゴバルド族がイタリアに侵入して、ランゴバルド王国(568年〜774年)を建国したりなどのいくつかのゲルマン人の王国の支配を経てフランク王国のカール1世が征服。『シャルルマーニュの寄進状』によれば800年にカールによりローマ教皇に寄進されたとされるが、この文書は今日では偽書とする見解が優勢である。15世紀半ば以降、ローマ教皇領の首都として栄え、ローマはルネサンス文化の中心地となった。
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