ドイツ語圏(主にドイツ・オーストリア)の爵位
(2009.11.17作成)


ドイツ語 対応する日本語 読み方
Erzherzog (オーストリア大公のみ) 大公 エルツヘルツォーク
Grossherzog 大公 グロスヘルツォーク
Herzog 公(大公) ヘルツォーク
Grossfürst 大公(東欧の) グロスフュルスト
Fürst フュルスト Markgrafと同等
Markgraf 辺境伯 マルクグラーフ
Landgraf 方伯 ラントグラーフ
Pfalzgraf 王領地伯 パァルツグラーフ
Wildgraf 御猟場伯 ヴィルトグラーフ
Rheingraf ライン(ガウ)伯 ライングラーフ
Burggraf 城伯 ブルクグラーフ
Reichsgraf 帝国伯 ライヒスグラーフ
Graf グラーフ
Freier Herr 男爵 フライアー・ヘル
Ritter 騎士 リッター 一般的には貴族として扱わない

大公(英:Archduke, 独:Erzherzog)
 欧州ではハプスブルグ家のオーストリア大公のみという特別な爵位。Erzherzogはハプスブルク家のルドルフ4世(在位:1358~1365年)が勝手に「オーストリア大公」と自称したのが始まり。ハプスブルク家の成員のみがErzherzogを名乗れるとされた。現在のハプスブルク家の当主オットー・フォン・ハプスブルクも Erzherzogと称している。

大公(Grossherzog)
 1806年に神聖ローマ帝国が崩壊したあと、独立勢力となったドイツ諸侯が使用した称号。国家元首である大公の意味合いがある。

公爵(Herzog)
 もともとは古代ローマ帝国後期の軍事官職に由来し、最高指揮官を意味したduxを起源とする。次第にローマ帝国は異民族の首長にDuxを与えるようになった。4世紀には文官と武官が別れ、Duxはそれぞれの軍団の指揮官の職名に使われた。このDuxは引き続きフランク王国でも使われた。複数のcomes(伯爵の語源)に軍事命令権を持っていたが、次第にゲルマン的な有力部族大公へ置き換えられていった。神聖ローマ帝国初期のオットー朝時代にはザクセン、フランケン、バイエルン、シュヴァーベンなどの大公位を一族で独占していた。ドイツ史においては、中世では「大公」、初期近代以降は「公」と訳し分けるので、その境界をどこに設けるかは難しい問題である。ヴィッテルスバッハ家の”Herzog in Bayern”についていえば、バイエルン公位を独占するようになる1180年以降を「バイエルン公」とするのが一般的である。

侯爵(Fürst)
 Fürstはゲルマン語に由来し、元々(15、6世紀ごろ)は「貴族全体」を指す言葉だった。 近世以降に公と伯の間の爵位として「辺境伯」から分離して新設された。主に日本語では「侯爵」と訳されるが、イギリス貴族などの侯爵(Marquess)は、ドイツの辺境伯(Markgraf)と同等の爵位であり、Fürstと同等ではない。そのため、侯爵=Fürstと単純に訳が出来ないやっかいな爵位である。

伯爵(Graf)
 もともとは、古代ローマ帝国後期の5世紀頃に地方支配の全権を付与された役人であるcomesを起源としている。このcomesはduxの指揮下にあった。この役職が引き続きフランク王国でも使われ、それをゲルマンに持ち込んでゲルマン化し、官職から貴族の称号へと変化したものである。Grafという言葉の由来はギリシア語のgrapheus(書記。「グラフ」と同語源)で、ドイツでは辺境伯や王領地伯、方伯といろいろあった。

辺境伯(Markgraf)
 当初はカロリング朝フランク王国で辺境を守る武将の官職名で、フランク王国東部のローマ帝国との国境線に多く配された。異民族に接する辺境にあったので権限が大きかった。次第に貴族の称号となってゆき通常の伯爵より格上、後の侯爵Fürstになった。

王領地伯(Pfalzgraf)
 神聖ローマ帝国における「宮廷の書記」という意味であり、今日では「大臣」に相当するものと解釈される。通常は10人前後の王領地伯がいて、それぞれの担当する部署において政務を処理した。やがて地方において諸侯が台頭し、帝国が分裂状態となると、皇帝により諸侯を監視したり、時には諸侯の力を押さえるために各地に派遣されたが、そのほとんどは諸侯との戦いの中で没落していった。唯一ライン王領地伯のみが任地のライン地方に土着し、自ら諸侯化するとことで存続した。そのため、王領地伯(Pfalzgraf)=ライン王領地伯を指すようになったため、「プファルツ王領地伯」と通称されるようになり、1356年の「金印勅書」によってライン王領地伯は選帝侯となった。
方伯(Landgraf) 「伯爵」の代わりに神聖ローマ帝国皇帝に封建的な義務を直接負っていた者に使用された称号。その支配領域は公爵・司教・宮中伯のような中間の権力の言いなりにならずに、時々大きく拡大された。神聖ローマ皇帝に直接義務を負っていたものでその主権は公爵に匹敵し、通常の伯爵より上だった。この称号は神聖ローマ帝国の時代を通じて生き延びたが、帝国滅亡の1806年に廃止された。

城伯(Burggraf)
 神聖ローマ帝国時代に城塞(burg)の司令官という官職であったが、次第に有名無実化し、その称号のみが爵位化して帝国の封建諸侯によって世襲された。
城伯として有名な家系にホーエンツォレルン(Hohenzollern)家がある。この家系は1191年にニュルンベルク(Nürnberg)の城伯になったのをきっかけとして領地を拡大。1415年にブランデンブルク辺境伯(Markgraf Brandenburg)の地位を取得し、最終的にプロイセン国王、ドイツ皇帝となった。

男爵(Freiherr)
 爵位の最下級に位置し、英語でバロンに対応するドイツ語フライヘルFreiherrは、11世紀以降、Grafの下に位置する騎士的な小領主層freie Herrenを指したが、彼らの一部は中世末期にGrafへと上昇し、一部は家士 (ミニステリアーレ) と融合することにより下級貴族の一称号となり、18世紀には皇帝直属の帝国騎士Reichsritter身分がFreiherrと呼ばれた。プロイセン改革の指導者シュタインの家門などがその例である。

(参考サイト)

http://harryhp.hp.infoseek.co.jp/kaikyuu2.html
http://www.warbirds.jp/ansq/9/I2000404.html
http://homepage.mac.com/linstedt/linische/imprimis.html


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