カール1世
(Karl I, 1887年8月17日〜1922年4月1日)
(オーストリア皇帝およびハンガリー王)
在位(1916年11月21日〜1918年11月11日)

1917年頃撮影
wikipediaより
(2008.5.6作成)

 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟カール・ルートヴィヒ大公の孫に当たる。

 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥で皇位継承者に指定されていたフランツ・フェルディナント大公(カール1世の伯父にあたる)は、ボヘミアのホテク伯爵令嬢であるゾフィー・ホーヘンベルク公爵夫人(大公妃の称号は認められなかった)との貴賎結婚がフランツ・ヨーゼフ1世の忌避にあっており、カールがフランツ・フェルディナント大公の次の皇位継承者と目されていた。

 サラエボ事件で、皇太子フランツ・フェルディナント大公暗殺によって、思いがけず皇位継承者となった。第一次世界大戦時は参謀本部詰であったが、1916年5月第20軍団を率いて、南チロル攻勢に参加。その後、ブルシロフ攻勢で戦線が崩壊したガリシアにむかった。

 そこでほぼ全滅した第5軍の再建などに取り組むが、その年11月フランツ=ヨーゼフ帝が死去し、新皇帝として即位した。しかしカールはガリシアでの敗戦で、戦局は絶望的と判断し分離和平の道を模索する。1917年には、義理の弟であるパルマ公シクストゥスを通じて、秘密裏に連合国側と和平交渉を行い、フランスとの単独講和の合意を得たが、1918年に独墺間の離反を謀ったフランス側によって暴露されてしまい、交渉は水の泡となる。また同盟国だったドイツの信用も失う結果となった。1918年の同盟国側の戦線崩壊とともに、統治下の各民族の離反(チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランドなど)にともない、帝国は崩壊していく。

 1918年11月3日に連合国に無条件降伏後、カール一世は11月11日シェーンブルン宮殿内の「青磁の間」において事実上の退位表明である国事不関与の声明を出した後、宮殿を去りスイスのエッカルツァウ城に隠棲した。隠棲後も正式な退位を拒むカール1世に対し、オーストリアはハプスブルク家の復活をおそれ、1919年に「家系と絶縁し、王権、財産権を放棄する誓約書に署名しない限り、一族の入国を認めない」とする悪名高いハプスブルク法を制定し、ハプスブルク家の廃位と一族の追放、王室財産はもとより20世紀最大の合法的略奪と言われる王室の私有財産に至るまでの財産没収をもって応えた。

 その後、1921年4月と11月の2度にわたって摂政制によって王政が存続しているハンガリー王国における主権を取り戻そうとしたが失敗し、1921年11月にハンガリー議会でハプスブルク退位決議が行なわれ、ハンガリー国王としても廃位された。スイスへの受け入れも拒否されたため、連合国側によってポルトガル領マデイラ島に事実上の流刑ともいえる亡命を余儀なくされた。更に亡命時に持ち出せた資産を失い、ハプスブルク法によって旧帝国領域での資産を強奪された皇帝一家は極貧へと追い込まれ、カール1世は翌年4月肺炎のため亡くなった。
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