フランツ・ヨーゼフ1世
(Franz Joseph I, 1830年8月18日〜1916年11月21日)
(オーストリア帝国皇帝(後にオーストリア皇帝およびハンガリー王)
在位(1848年12月2日〜1916年11月21日)

1915年頃撮影
wikipediaより
(2008.3.15作成)
(2008.5.6写真追加)

 オーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の実質的な最後の皇帝。在位は68年にも及び、晩年には「国父」、「不死鳥」と呼ばれ、帝国の象徴的存在となった。

 オーストリア皇帝フランツ1世の三男フランツ・カール大公とバイエルン王マクシミリアン1世の娘であるゾフィー大公妃の長男として生まれる。1848年の三月革命によって伯父のオーストリア皇帝フェルディナント1世が退位したため、18歳で即位した。

 対外的には困難の連続であった。イタリア統一戦争に敗北し、1859年に北イタリアの帝国領ロンバルディアを、1866年にヴェネトを相次いで失い、さらに1866年にはドイツ統一の主導権を握ることをもくろんでいたプロイセン王国宰相ビスマルクの罠にかかり、普墺戦争に敗れ、主導権を奪われてしまう。その後は、ビスマルク及びドイツ帝国と接近・協調していった(パン=ゲルマン主義)。1873年にはドイツ、ロシア帝国と三帝同盟を、1882年にはドイツ、イタリア王国と三国同盟を結ぶ。

 国内的には、ナポレオン戦争による民族意識の向上により、各民族の自治権拡大要求運動が頻発した。最初は武力をもちいて徹底的に押さえ込んだものの、次第に妥協をせざるを得なくなり、1861年、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めた。また、1867年、ハンガリー人との「妥協(アウスグライヒ)」を実現させ、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立し、ハンガリー人に、外交・軍事・財政以外の内政権の大部分を認め、他の民族の自治権拡大要求を押さえ込もうとした。しかし、その後も民族問題は激化の一途をたどり、1908年のボスニア=ヘルツェゴビナを併合を行ったことは、汎スラブ主義の先頭に立つセルビアを刺激し、更に民族問題を複雑化させ、これが第一次世界大戦の導火線のもととなった。

 帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中で、1914年、サラエボ事件が起こり、オーストリアはセルビアに宣戦を布告し、第一次世界大戦が勃発する。戦争中の1916年、肺炎のためウィーンにて崩御。享年86歳。

 フランツ・ヨーゼフ1世は非常にまじめで几帳面な人物で、皇帝に即位後は死の直前まで1日3時間の睡眠時間で激務に当たったという。家庭面では悲劇の連続で、長男で皇太子のルドルフは、1889年にマリア・ヴェッツェラ男爵令嬢とマイヤーリンクで謎の心中を遂げる(暗殺説もある)。また、皇帝の弟マクシミリアンはフランス皇帝ナポレオン3世によって傀儡のメキシコ皇帝に擁立されたが、メキシコ共和国のファレスに逮捕され銃殺された。さらに1898年、最愛の妻エリーザベトが、旅先でイタリア人無政府主義者ルイジ・ルキーニに暗殺された。ルドルフ亡き後に皇位継承者となった甥のフランツ・フェルディナント大公とは政治的対立が見られた。しかしそのフランツ・フェルディナント大公も、夫妻ともども1914年6月28日のサラエボ事件でセルビアの民族主義者ガブリロ・プリンチプに暗殺された。また、このことに端を発してオーストリアはセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦に拡大していった。この第一次世界大戦によってフランツ・ヨーゼフ1世が必死に守ろうとした帝国自体が崩壊していくことになるが、それを見ることなくこの世を去ったのはせめてもの救いというほかない。

 この時代、帝国は緩やかな衰退傾向であったが、芸術文化面では「世紀末ウィーン」と呼ばれる絶頂期を現出させた。
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