フランツ2世(神聖ローマ帝国皇帝)
フランツ1世(オーストリア帝国皇帝)
(Franz I, 1768年2月12日〜1835年3月2日)
(神聖ローマ帝国皇帝、オーストリア帝国皇帝)

在位
神聖ローマ帝国皇帝(1792年3月1日〜1806年8月6日)
オーストリア帝国皇帝(1804年8月11日〜1835年3月2日)

wikipediaより
(2008.12.1作成)

 神聖ローマ帝国最後の皇帝、在位1792〜1806年。オーストリア皇帝としてフランツ1世、在位1804〜35年。イタリアのフィレンツェで生まれ、ウィーンで教育をうける。父帝レオポルト2世の死去に伴い1792年に神聖ローマ帝国皇帝に即位、以後1815年まで、フランス革命とナポレオン戦争にまきこまれた。1804年にナポレオンによってフランス帝国が成立すると、すでに死に体同然であった神聖ローマ帝国解体を予想したのか、自身も同年オーストリア帝国を成立させた。

 1805年のアウステルリッツ(現在のチェコ)の戦いでオーストリアとロシアの連合軍がフランス軍に敗れ、また1809年にはアスペルン、ワダグラム(ウィーン近郊)において戦いにも敗れ、ナポレオンがウィーンに2度も占領されるという屈辱を受ける。そしてフランスとドイツ諸侯がライン同盟を結んで、バイエルンなどの16領邦が神聖ローマ帝国から離脱していくことを受けて、1806年8月6日神聖ローマ帝国は解体を宣言して、844年の歴史を誇った神聖ローマ帝国は名実ともに消滅・滅亡した。以後1804年に成立したオーストリア帝国皇帝フランツ1世を称することとなる。1812年、ナポレオンがモスクワ遠征に失敗すると、翌1813年にはオーストリアをはじめとする同盟軍、ライプツィヒの戦いでナポレオンを破った。
 1814年〜1815年に開催された戦後処理とも言うべきウィーン会議を主導し、ハプスブルク家は戦前の領土を回復したばかりか更に新しい領土を手中にした。具体的にはヴェネツィアを含む北イタリアとアドリア海沿岸、先に失ったイリュリア州のスロヴェニア・クロアチア地方、チロル、ザルツブルク、リツィアなども復活したが、ベルギーだけはオランダに編入されて戻ることはなかった。また、ウィーン議定書によってライン同盟は解体されたが、神聖ローマ帝国は復活されず、ドイツでは、オーストリア、プロイセン、バイエルン、ザクセン、ハノーファーなど35の君主国と、リューベック・フランクフルト(=アム=マイン)・ハンブルク・ブレーメンの4自由市で構成するドイツ連邦(1815-66)が構成され、オーストリアが盟主に任じられた。各国代表は独立形態ではあったが、フランクフルトにおいて連邦議会に出席し、オーストリアが議長を務めた。

 フランツ1世の治世は約40年も続くが、彼は保守的で消極的な皇帝で「良き皇帝フランツ」と呼ばれ、政務はメッテルニヒが取り仕切った。

 1835年死去。フェルディナント1世がオーストリア帝国の皇帝として即位。

 ちなみに、彼の娘マリー・ルイーズはナポレオンと結婚し、ナポレオン2世(ライヒシュタット公)(1811-1832)を生んだ。
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