旧帝国のその後
(2008.4.1作成)

 ナポレオン戦争と1948年の3月革命以降、帝国内で民族運動が多発したが、その要求は第一次世界大戦以前までは、あくまでも独立ではなく、帝国内の自治権拡大であった。ドイツとロシアの二大国に挟まれたこの地域で、小国では生き残れないことを十分に自覚していたからである。

 しかし、第一次世界大戦が長引くにつれ、食糧難などによって厭戦ムードが高まり、1916年には民族統合の象徴であった皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の死去、また1918年1月にアメリカ大統領ウィルソンによる「民族自決」を基礎とした「14カ条の平和原則」表明によって、独立の気運が高まる。当初連合国は、主たる敵をドイツと見ており、オーストリア=ハンガリーはドイツの同盟国であるから敵である、という程度の認識を持っていたのみで、オーストリア=ハンガリー帝国を解体することは考えていなかった。このウィルソンの提案も、あくまで帝国の連邦化によって帝国の諸民族に自治権を保証しようとするもので、解体を前提とはしていなかった。ところが、1918年の3月のブレスト・リトフスク条約によってソヴィエトが戦線離脱し、西部戦線に同盟国の兵力が集中する状況になり、連合国は、「最終的にドイツを倒すためには、オーストリアを解体に追い込む」方針に転換し、オーストリア=ハンガリー帝国内の各民族に独立と革命を扇動した。結果、1918年には雪崩を打ったように帝国内の各民族は独立を宣言し、オーストリア=ハンガリー帝国は解体した。

 オーストリア=ハンガリー帝国の解体によって、「民族自決」の名の下に東欧にたくさんの国が生まれた。しかし、その国境の線引きは大国の思惑が複雑に絡んだ上、もともと旧帝国は諸民族が点在するモザイク国家であったため、誕生した各国には多数の民族が混在し、民族紛争などの火種となる危険性をはらむ結果となり、第一次世界大戦前以上に政情は不安定化した。

 東欧の一小国になりはてた新生オーストリアは、「民族自決」の精神に基づき、同じ民族国家であるドイツとの併合を希望したが、ドイツの強大化をおそれた戦勝国によって禁じられた。

 また、「ハプスブルク」という傘の下でうまく一つにまとまっていたが、その庇護がなくなった東欧の新興小国は、国際政治の荒波に放り出され、ドイツ、ソ連という二強国に挟まれて翻弄された。国際紛争の解決を目的とした国際連盟は実際には無力であったため、独立を守ることが難しく、次第にドイツ、ソ連に併合・衛星国化していった。ナチスドイツが、「民族自決」を逆手にとって、東欧各国に点在しているドイツ系民族の保護を名目に侵略していったのは、なんとも皮肉な話である。

(参考サイト)
http://creative.cside2.jp/kindai-daigakuin-nb/sosaku-hyoron/project/catalogue/ca-1914-06-01.html
http://www.geocities.jp/musichall8541/kenkyuu2-23.html
トップ帝国滅亡>旧帝国のその後