ハプスブルク家のその後
(2008.4.1作成)

 1918年11月3日に連合国に無条件降伏後、カール一世は11月11日シェーンブルン宮殿内の「青磁の間」において事実上の退位表明である国事不関与の声明を出した後、宮殿を去りスイスのエッカルツァウ城に隠棲した。隠棲後も正式な退位を拒むカール1世に対し、オーストリアはハプスブルク家の復活をおそれ、1919年に「家系と絶縁し、王権、財産権を放棄する誓約書に署名しない限り、一族の入国を認めない」とする悪名高いハプスブルク法を制定し、ハプスブルク家の廃位と一族の追放、王室財産はもとより20世紀最大の合法的略奪と言われる王室の私有財産に至るまでの財産没収をもって応えた。

 その後、1921年4月と11月の2度にわたって摂政制によって王政が存続しているハンガリー王国における主権を取り戻そうとしたが失敗し、1921年11月にハンガリー議会でハプスブルク退位決議が行なわれ、ハンガリー国王としても廃位された。スイスへの受け入れも拒否されたため、連合国側によってポルトガル領マデイラ島に事実上の流刑ともいえる亡命を余儀なくされた。更に亡命時に持ち出せた資産を失い、ハプスブルク法によって旧帝国領域での資産を強奪された皇帝一家は極貧へと追い込まれ、カール1世は翌年4月肺炎のため亡くなった。

 ブルボン=パルマ家の出身で1911年に結婚した皇妃ツィタは、カールの死後修道院生活に入り、1989年まで存命したという。ハプスブルク法への署名を拒否した彼女は、短期間の一時帰国を除けば、オーストリアに永住帰国することはできなかった。死後、皇后として帰国することになった彼女は、王家の墓所であるカプツィーナ霊廟に埋葬される最後の人間となり現在もそこで永眠している。

 なお、カールの子供達は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はある。

 長子でハプスブルク家当主のオットーは、母ツィタ皇后によってハプスブルク家の家長であり、失われた帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ2世であると宣言した。オーストリアがナチスドイツに併合されると、アメリカの支援の下、オーストリア人部隊を創設して祖国解放計画を立てたが、隊員の質の悪さによりこの計画は失敗した。第二次世界大戦後には、オーストリア首相となったカール・レンナーをソ連の手先として厳しく糾弾したが、レンナーがソ連の妨害を阻止して自由選挙を成功させ、ソ連の影響力を封じたため、オットーの信用力は著しく損なわれてしまう。その後、1961年にはオットー大公は退位してハプスブルク法に従うことを宣言し、大公一家はオーストリアへの帰国を果たす。1999年までドイツ選出の欧州連合議会議員を務める。

 ちなみに現在の帝位請求権者は、オットーの弟で、カール1世の三男のフェリックス氏である(2008年現在)。

(参考サイト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB1%E4%B8%96_(%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%9A%87%E5%B8%9D)
http://ww1.m78.com/hito/charles%201.html
http://www1.ncv.ne.jp/~amu/page104.html
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